消えることない、静かな激情 詠む

園内最高齢105歳 畑野むめさん
 巡り来た春が園内500本の桜を染めた。入所者で最高齢105歳の畑野むめさんは、歌人としても知られる。視力を失い、耳も遠くなったが、張りのある声と朗らかな人柄は今も変わらない。一人の人間として、女性として、波乱の人生を歩んだ。戦後70年、その心に映る桜の風景は。3月末、車いすで花見に出掛けたむめさんに同行した。

 「気持ちがいいなー。外の空気は違うよ」

 六分咲きの桜並木が広がる。その様子を、車いすを押す女性職員が耳元で伝えると、むめさんは「サクラ、サクラ」と歌い始めた。

 「昔は、正門から入って、行けども行けども桜だった。若いころは、一張羅を着て、花の下で踊りました。きょうは愉快だなぁ」

 一帯は戦前、ヒノキ林だったが、施設増設に伴い、桜が植えられた。あの空襲でも、桜たちは不思議と被害を受けなかったという。

 「ここは、どこまで行っても平らで、坂がないでしょ。鹿児島から来た友達を自転車の後ろに乗せ、案内したもんです。こんないい所はありませんよ」

 そして、ぽつりつぶやいた。「でも随分、人が亡くなった」

     ☆     ☆

 〈昭和六年風呂敷包さげて来し二十二歳の早春なりき〉

 熊本県で生まれ、女学校に入学後、病状が進み、数え22歳で入園した。翌年に結婚。元教員だった夫に誘われて作歌を始め、1936年に園内の短歌会「檜(ひ)の影」に入会した。

 〈古里をこふる心のきはまればたらちねの夢しげしげと見る〉

 やがて夫は病没。懇意にしてくれていた男性と再婚しようとしたが、患者自治会が認めなかった。柳行李(こうり)一つをそれぞれ抱え、駆け落ち。同じ療養所、星塚敬愛園(鹿児島県鹿屋市)に身を寄せるが、すぐに追放。生家に身を寄せる。戦争が激しさを増す43年ごろ。弟たちは召集されていた。

 〈三人の男(お)の子征(ゆ)きしと古里の母が供ふる陰膳(かげぜん)を見つ〉

 身ごもっていることが分かった。恵楓園に戻ると、逃走患者として監禁室での生活を強いられ、堕胎手術を受けた。大分県の生家に戻っていた男性は応召。「南方に行く」との手紙が最後だった。

 〈三十四の時みごもりし子の未来思ひ苦しみ産まざりにけり〉

 これまで4冊の歌集を出版。歩みや身辺を日記風に詠んでいる。62年に出版された初の歌集には、戦前から年ごとに約500首が収められているが、終戦の年に詠んだ短歌はない。後にこんな一首を詠んでいる。

 〈戦時下の涙の如き水溜(た)めてハンカチ洗ひ人を恋ひにき〉(母が亡くなった73年)

     ☆     ☆

 終戦の年の暮れ、2度目の結婚。男性には前妻との間に生まれた3人の子どもがいたが、食べ物がない。戦後は、外地から引き揚げてきた患者も増え、食糧事情はより悪化した。実家に忍んで行き、トランクに食料を詰め、帰ろうとするが、重くて持てない。妹が運搬を手伝ってくれた。高さ約2メートルの隔離塀を乗り越えると、妹が言った。「あらぁ、姉ちゃんは戸口もないところにおるとな」

 〈隔離塀高くとも空には及ばず七十五年を仰ぐ火の燃ゆる山〉(2006年)

 入園から75年、熊本県内のホテルが03年、ハンセン病回復者の宿泊を拒否した悲嘆も重ねている。「人間がつくった差別なんて、雄大な自然から見たら、大したことなか」。むめさんはかつて、本紙記者にそう話している。

 差別や偏見、その愚かさを母のように諭している。戦争についても、そんな捉え方だったのだろうか。

 「どうして戦争を続けるのかと。だから、戦争が終わったとき、とてもうれしくて」。知人らを介した取材は、そんなやりとりが精いっぱいだった。

     ☆     ☆

 むめさんにとって、戦争とは何だったのだろう。地元の現代歌人は、歌集からこんな心境を感じ取る。

 〈八月のカレンダーにも向かはずに痛む目をとぢ今日は眠らず〉

 「8月への思いは共有のものだが、作者ははっきりと拒否を表明している。カレンダーの裏側で、痛む目を閉じ、鎮魂のために冴(さ)えざえとしているのだろうか。消えることのない、静かな激情が伝わってくる」(柘植周子(ちかこ)さん、79歳)

 〈短歌会場ビル七階の入口に拒まるるとは思ひみざりし〉

 「地元で1975年に開催された短歌大会でしょう。作品を出しておられたのかもしれない。厳しい人の心を感じる。戦争そのものを詠んだ歌は少ない。戦争とは比べようもないが、ハンセン病はそれほど重く、過酷だったと気付かされる」(佐藤宏子さん、73歳)

     ☆     ☆

 むめさんは、97年の終刊まで中央歌壇「アララギ」の会員でもあった。その編集発行人だった土屋文明(90年死去)は、恵楓園にも何度か足を運び、歌を批評した。「うそは言わないで、本当のことだけを残しなさい」。むめさんには「土屋先生」のそんな言葉が残る。アララギの思想「写生」をかみ砕いている。

 文明は東京大空襲で40年、住家を失い、郷里の群馬県に疎開した。当時、こんな一首を詠んでいる。

 〈少数にて常に少数にてありしかばひとつ心を保ち来にけり〉

 少数、弱者だからこそ、見えていた戦争があった。辛苦の時代にあっても「ひとつ心」(自己)を忘れまいとする信念。むめさんの短歌からも、そんな歌声が響いてくる。


=2015/05/31付 西日本新聞朝刊=

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