沖縄戦 無音の地獄絵図 激高の兵隊 脳裏離れず

 空襲の中を命懸けで逃げた障害者、戦闘で心身に傷を負った兵士…。その全容を確かめるすべはないが、日中戦争や太平洋戦争で負傷、病気になった元軍人などでつくる日本傷痍(しょうい)軍人会(2013年11月末解散)の最も多いときの会員は約35万人に上り、戦争に踏みにじられた全ての障害者数はそれを大きく上回るとみられる。障害と共に、戦中、戦後を生き抜いた人たちの声を集めた。

暗闇の中、家族と避難 西平ナヘさん(83)
 1945年1月末、沖縄への米軍上陸が始まる2カ月前だった。生まれつき耳が聞こえない西平ナヘさんは当時13歳。那覇はすでに空爆で焼け野原となっていた。北部の大宜味(おおぎみ)村に暮らしていた家族は山中への避難を決断した。

 「アー」「アーッ」…。70年前の記憶をたどりながら西平さんの口元が、何かを訴えようと懸命に声を絞り出す。

 「うっそうと茂った草木をかき分けながら登って行きました。月明かりのない真っ暗な夜で怖かった」。隣で手話通訳の女性が言葉をつないだ。

 はぐれないように父の着物の裾を握りしめながら山を越えた。頼りの視覚すら奪われた暗闇では、父の手引きだけがすべてだった。ぬかるみに足を取られ、うっかり父の着物から手を離してしまった。途方に暮れてへたり込んでいると、たいまつを手にした父が戻ってきた。

 「どんな時も父が捜し出してくれた。私を見捨てなかった。だから怖い思いをしても、もうだめだと思うことはなかったのです」

 戦後の民間研究者の調査によると、沖縄戦が激しさを増す中、寝たきりの老人や病人をはじめ、体や心に障害のある人も「足手まといになる」とされ、家族から見捨てられることもあったという。特に障害者は、身に迫る危険を自力で察知することが困難で、犠牲になるケースもあった。

    ◇    ◇   

 沖縄北部には聾(ろう)学校がなく、西平さんは大人になるまで手話や読み書きを学ぶ機会がなかった。家族との会話は自己流の手話で補い、そばにはいつも弟が寄り添い戦況を教えてくれた。

 沖縄戦では、日本の憲兵の質問にうまく答えられず、スパイだと疑われ殺される聴覚障害者もいたという。まだ子どもだった西平さんにスパイの疑いが掛かることはなかった。だが戦況悪化とともに、村に駐在していた日本兵の態度は一変した。銃剣を振りかざして食料を強奪したり、住民に暴力を振るったりする姿を目にした。

 音のない世界に住む西平さんにとって、戦争の記憶は戦闘機のごう音や機銃乱射のさく裂音ではなく、目の前で激高する兵隊の姿だという。

 3カ月の避難生活後、家族で米軍に投降した。数日後に解放されて村に戻ると、親戚一家9人が自宅で殺されていた。おじの腹からは内臓が飛び出していた。日本兵を捜しに来た米兵がふとんに隠れた一家を撃ったのだった。変わり果てた姿に衝撃を受け、周囲の様子は記憶にない。「私はただぼうぜんと柱につかまり、ガタガタ震えるしかなかったのです」

    ◇    ◇   

 戦後も米軍の占領下に置かれた沖縄では、兵隊に対する恐怖から解放されることはなかった。女性たちは米兵の暴行を恐れて髪を短くし、わざと古い着物をまとった。それでも西平さんの姉が米兵から連れ去られかけたこともあった。「米兵を見たらとにかく逃げろ」。みんな口をそろえた。

 終戦から2年たったある日。1人で畑にいた西平さんのそばに米軍の車が止まり、3人の屈強な男が近づいてきた。「アンマー!(お母さん!)」。とっさに助けを求めたが、心の叫びは声にならなかった。無我夢中で水田に飛び込むと、泥だらけの姿を見た米兵は諦めて去って行った。

 自分の力で生きてみたいと、24歳で那覇市に出た。昼は縫製の仕事をしながら、夜は聴覚障害者の集まりで手話や読み書きを学んだ。聴覚障害者の那覇出身の男性と結婚、3人の子どもにも恵まれた。3年前、夫が亡くなった際は一時的にふさぎ込んだが、今は手話サークルや得意の手芸を楽しみながら暮らしている。

 激戦地となった沖縄南部では多くの人が家族を失い、飢えに苦しんだ。自分よりもっと大変な苦労をした人がいるとの思いから、戦争体験を語ることは控えてきた。だが今、沖縄の空を飛ぶオスプレイを目にするたびに、あの山の中へ逃げた日のことを思い出す。

 「現在の日本は、まるで戦争の準備をしているように見える。子どもたちには、私たちと同じ思いをしてほしくない。だから私も戦争を語ろうと決めました」

(沖縄県豊見城市)

=2015/05/31付 西日本新聞朝刊=

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