防空壕生活 被爆死逃れ

 空襲の中を命懸けで逃げた障害者、戦闘で心身に傷を負った兵士…。その全容を確かめるすべはないが、日中戦争や太平洋戦争で負傷、病気になった元軍人などでつくる日本傷痍(しょうい)軍人会(2013年11月末解散)の最も多いときの会員は約35万人に上り、戦争に踏みにじられた全ての障害者数はそれを大きく上回るとみられる。障害と共に、戦中、戦後を生き抜いた人たちの声を集めた。

全盲、長崎爆心地1.8キロに自宅 今泉 一馬さん(85)
 その10日ほど前からは、防空壕(ごう)で寝起きしていた。空襲警報が鳴るたび、目が見えない私は、一つ違いの妹に手を引かれ、逃げよりましたから。往復ですからね。「あんたはもう、防空壕におらんね」と。洞窟のような所ですよ。まだ15歳。寂しかった。でも、そのおかげで私の命はある。

 〈7歳の時、はしかを患い、視力を失った。通っていた旧盲学校は軍需工場になり、夏休みが前倒しで始まっていた。爆心地から約1・8キロ。長崎市の稲佐山のふもとにあった自宅近くの防空壕で8月9日を迎えた〉

 その日は朝9時ごろ、差し入れてくれたにぎり飯を食べ、壕でごろごろしていた。11時ごろになり、「たまには家に帰って、ご飯を食べようかな」と、立ち上がった瞬間でした。バーンというごう音。熱風が吹き付けてきた。恐ろしくなって、近くにあった丹前をかぶった。

 〈8人きょうだい。兄2人は召集、長姉は別に暮らしており、一家7人で暮らしていた。父はその日も造船所に勤務。母は買い出しに出掛けていた〉

 4歳だった一番下の妹が、防空壕に転がり込んできた。「兄ちゃん、恐ろしか」って、しがみついてきた。私は「じっと、しとけよ」って、抱き締めた。

 警防団の指示を受け、高台の小学校へと急いだ。その幼い妹が、手を引いてくれた。後ろから、火が迫ってくるのが分かった。バリバリ、パーン、ボーン…。逃げっとに必死さ。「そっちじゃない。こっちだ」「助けてください。水をください」。あちこちから叫び声が聞こえた。

 〈留守番をしていた妹弟は、倒れたたんすの隙間に救われた。両親も無事だったが、家は全焼、家族全員が被爆した。一家は佐賀県の親族宅に身を寄せた後、長崎市に戻り、バラック小屋を建て、暮らし始めた。今泉さんは30歳の時、マッサージ院を開業。今は視覚障害者の高齢者施設で再婚した妻と暮らす〉

 戦時中は、飛行機の音を聞くと、体がブルブル震えていた。やがて、船の汽笛や汽車が走る音に、復興の足音を感じた。今は野鳥のさえずりに幸せを感じる。

 4歳だった妹もおばあちゃん。結婚し、孫にも恵まれた。あの時、生米を持って来てくれよったそうですよ。壕では調理できず、食べられないんですが、心配してくれよったんですね。きょうだいのおかげですよ。

(長崎県諫早市)

=2015/05/31付 西日本新聞朝刊=

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