健常者に負けたくない
空襲の中を命懸けで逃げた障害者、戦闘で心身に傷を負った兵士…。その全容を確かめるすべはないが、日中戦争や太平洋戦争で負傷、病気になった元軍人などでつくる日本傷痍(しょうい)軍人会(2013年11月末解散)の最も多いときの会員は約35万人に上り、戦争に踏みにじられた全ての障害者数はそれを大きく上回るとみられる。障害と共に、戦中、戦後を生き抜いた人たちの声を集めた。
負傷兵をマッサージ治療 田久保 龍三さん(87)
広い境内に響き渡る、人生で一番の大声を張り上げました。「前へー進め! 敬礼!」。海軍記念日とあって福岡市の筥崎宮は、他校の学生や参拝者でいっぱい。号令係の私は、この時こそほかの中等学校に負けてはならんという思いだった。自分でもびっくりするような声が出て、その後数日間は声がかれたですよ。
〈幼少期に病気が原因で左目を失明。右目にはわずかに視力が残った。旧制小学校卒業後、福岡市の福岡盲学校中等部に入学した〉
健常者の友人のように学徒動員に行けない中、どこか負い目を感じていた気がする。はり・きゅうマッサージで国に奉じよ、と報国精神をたたき込まれ、それが当然だと思っていた。
〈負傷兵がいる陸軍病院に実習生で通い、体内に弾丸や破片が残って曲がりにくい肘や膝を押した〉
みんな若い人たい。うめき声を上げながらも「田久保君遠慮するな。もっとやれ」と言ってくれた。少しずつ治っていく様子にやりがいを感じた。旧制小学校では弱視でいじめられたが、仲間に恵まれ、手に職を持ったのが支えになった。
〈1944年秋、海軍技療手の募集があった。特攻隊員など航空隊員の体をケアする仕事で、軍属として戦地に赴く可能性もあった。志願しようとしたが、父に反対されて断念した。福岡盲学校からは6人の海軍技療手が旅立った。その1人、西亘さん(故人)は戦後、手記にこう記した〉
「夜中に呼び出されると、明朝に出撃する若い少尉が右腕を抱えて背を丸めていた。腕が痛くて操縦かんが握れないという。きゅうを据え、300まで数えたところで少尉が『良くなった』と叫んだ。未明に再び起こされると、昨夜の少尉が『どうもありがとう。元気でな』と歌集を私に差し出した。早朝滑走路から見送った後、二度とその少尉の姿を見ることはなかった」
〈福岡盲学校の志願者6人は全員帰郷し再会した〉
生きていて良かったと互いに喜び合った。博多駅でバンザイしながら見送った時、もう会えないかもしれないという思いがそれぞれの胸にあったから。
戦時中は戦争に行く覚悟を植え付けられていただけに、終戦を知った瞬間はいろいろな思いが交錯したね。その日の朝まで、出征した人を見送ったんですよ。あれは何だったのかと。70年たったけれど、戦争はこりごりだ。
(福岡市早良区)
=2015/05/31付 西日本新聞朝刊=