夫の苦しみ 一生続いた

 空襲の中を命懸けで逃げた障害者、戦闘で心身に傷を負った兵士…。その全容を確かめるすべはないが、日中戦争や太平洋戦争で負傷、病気になった元軍人などでつくる日本傷痍(しょうい)軍人会(2013年11月末解散)の最も多いときの会員は約35万人に上り、戦争に踏みにじられた全ての障害者数はそれを大きく上回るとみられる。障害と共に、戦中、戦後を生き抜いた人たちの声を集めた。

傷病軍人支えた妻 江口 シオルさん(92)
 「負傷のおかげで帰れたが、戦友にすまない」と、夫は涙ば流しよりました。

 〈終戦後、夫の康男さん(故人)と見合い結婚をした。式の夜に、ビルマ戦線のことを語ってくれた。爆風で顔に大けがをし、気づくと野戦テントの中。進軍した部隊は全滅したという。その後、戦争については、ほとんど話さなかった〉

 傷痍(しょうい)軍人の妻として、しっかり支えていかなという気持ちでした。夫は震えが出て、汗びっしょりになって、布団をかぶせて押さえとかないかんとです。私が仕事するけん、長生きしてもらわなんと思ってきました。

 〈爆弾の破片が目に入っていた康男さんは入退院を繰り返す。外泊を許可され、家業の農作業に戻っても、すぐに横になった。ある時、病状が悪化して左目を摘出した。シオルさんは日記にこう書いた〉

 「苦しみにやつれて眠る夫(つま)のまゆ、苦悩のあとのそのままにして」

 〈手術後は義眼に慣れず涙が止まらなかったり、義眼が動いて白目になって周囲を驚かせたりした。視野が狭まり転びやすかった〉

 「両眼失明なら掘に身投げしようと思うとった」と聞いてびっくりしました。視力を失っても「不注意や事故じゃない。国のために働いて負傷した」と、それだけは言っておりました。

 イ草を編むと、ほこりが目に入り仕事にならんのでミカン山を営んだ。でも石段で倒れて骨折して。入院は生涯15回ほどでした。

 〈傷痍軍人妻の会で女性同士、悩みを明かして励まし合った。農家で食べ物はあったが現金収入は少なく恩給もわずかだった〉

 いっときでもそばを離れると「俺を嫌がって」と言われたり、体がままならんで茶わんを投げられたりした、と会員の苦労話を聞きました。苦しみは一生続くもんね、戦争は終わりじゃないですもん。他人には分からんし、言いたくもない。逆に「恩給もらいよるじゃんの」と言われました。

 お金がなくて子どもの授業料も工面せにゃならんでした。国に陳情して恩給が増え、少し楽になりました。

 〈子どもたちが独立し老後を楽しもうと思っていた矢先、康男さんは心筋梗塞で旅立った〉

 一言も話せずに逝きました。けんかしたこともないですもん。思い出になるようなけんかをしとけばよかった。

(福岡県大川市)


=2015/05/31付 西日本新聞朝刊=

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