精神障害、かなわぬ「復員」 肥前療養所に長期入院

 〈敗色濃くなる戦争末期、兵力不足の中で本来は徴兵を免除されただろう知的障害者も兵に取られた。戦争が長期化すると、戦場の恐怖や上官の制裁などで精神疾患になる兵士が増え、知的障害者にも二重障害になる人があったという。戦争によって精神障害になった兵士たちを受け入れるために、肥前療養所=現在の肥前精神医療センター、佐賀県吉野ケ里町=の建設が進められ、終戦後の1945年10月に開設された〉

 食事の時、患者さんの口から血が出ていたので「どうしたの」って見ると、体温計をかみ割っていました。自殺願望があったのでしょうか。心の中で戦争は終わってなかったと思うと気の毒です。傷の手当てぐらいしかできませんでした。

 〈手塚ツタヱさん(84)=同県神埼市=は46年4月、付属看護婦養成所の1期生となり、実習を重ねて看護師になった。当時、特効薬はなく頭に通電する電気ショック療法が主な治療。同期生(83)も振り返る〉

 電気治療を拒んで患者さんが暴れました。数人で体を押さえたけど、気持ちを思うとですね…。治療後はしゃんとなるけど、怖そうでした。戦友を亡くしたのか、上官にたたかれたのか…。現地の人に襲われたり、殺したりしたこともあったでしょうか。過酷な戦いを思い出すとでしょう。睡眠薬を使う人もいました。

 〈戦時中、精神障害兵士の療養所として、武蔵療養所=現在の国立精神・神経医療研究センター、東京都小平市=などが運営されていた。先の同期生は戦後の国立武蔵療養所でも勤務した〉

 戦地から引き揚げた元兵士が入院していました。どっちを向いても格子があって、患者さんが出歩けるのは中庭だけ。個室には錠があって、あそこで一日過ごすのかと思うとねえ。元兵士は「未復」と呼ばれていました。

 〈平時に戻り、兵員が召集を解かれるのが復員。だが、精神疾患の元兵士たちは、戦後も周囲の目を気にする家族から帰宅を拒まれることが少なくなかった。家族が行方不明の人もいた。社会に出られず長期入院するしかなかった元兵士たちは、本当の意味で復員していない未復員だった。手塚さんも、「肥前」にいた「未復」者を思い出す〉

 奥さんが熱心に通ってきていました。でも退院できない。どうして家に連れて帰れないのか、聞けませんでした。家族が全然お見舞いに来ない方もいました。

 〈肥前療養所近くの西光寺には、長期入院の末に無縁仏になった人たちの納骨堂がある。先代住職の作田法観さん(故人)が土地を提供し、募金協力も得て作った。従軍経験があった作田さんは、「生き残った罪滅ぼしに」と元兵士の供養に特別の思いを抱いていた。その遺志は、息子の耕瑩さん(73)が継いでいる〉

 病院の霊安室でお経を上げ、看護師さんから「この方は兵隊さんでした」と聞かされたことがあります。家族はなく、職員と見送りました。「未復」の人は、見ず知らずの土地の納骨堂に入りたくなかったでしょうね。誰だって古里に帰りたいですよ。

戦争と医療の二重被害
 旧国立肥前療養所の「創立三十周年記念誌」によると、戦争拡大とともに精神障害の兵士が増加。1940年に設立された武蔵療養所の増床や、肥前療養所建設などが決まった。だが、資材不足で「肥前」の完成は終戦後だった。

 戦後の国立武蔵療養所に勤めた日本社会事業大大学院の古屋龍太教授によると、新薬で外来治療が可能になっても、居場所がないことから、元兵士たちは長期間の「社会的入院」を強いられた。病院の周りのアパートを世話して地域生活を支援した同療養所のような取り組みは少なかった。古屋教授は指摘する。「彼らは戦争の被害者であるとともに、長く精神障害者を隔離収容してきた日本の精神科医療の被害者でもある」


=2015/05/31付 西日本新聞朝刊=

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