障害者「安楽死」7万人 ナチス 悪魔の優生学

 戦争の進行の中で、障害者はどう人権の侵害を受け、どんな行動を強いられたのか。また戦後も、戦争による傷でどう苦しみ続けたのか。そして、私たちは障害を通して戦争をどう捉え、行動すればいいのか。精神障害者をガス室で殺りくし、ユダヤ人虐殺に至ったドイツの歴史から考えるとともに、日本の専門家2人の分析を紹介する。

独ハダマー、「罪」伝える記念館

 第2次世界大戦中、ナチス・ドイツはユダヤ人虐殺より前に、精神障害者らを「安楽死」させる抹殺計画を実行していた。フランクフルトから電車を乗り継いで約1時間半。ドイツ中西部にある人口1万2千人の町ハダマーには、今も当時の施設が残されている。

 駅から坂を上った丘の中腹に精神科病院の建物が立っている。その一角が、ナチスの安楽死計画の記念館だ。シュルト館長が解説した。「ここは19世紀末からの精神科病院。第2次大戦が始まった1939年には軍の病院になった。別の安楽死施設の閉鎖を受けて、40年末から計画の中心的な施設になった」

 「T4計画」と呼ばれた安楽死計画は「治療不能で生きるに値しない」と判断された障害者を組織的・効率的に処理するのが目的だった。計画の生みの親は医師で、実行したのも医師。「死によって障害の苦しみから解放する」という論理で行われた。背景には「ドイツ民族の遺伝子的遺産の強化につながる」という優生学の理論があった。

 障害者たちはドイツ各地の医療施設などからバスに乗せられてハダマーに到着。本人確認が終わると「シャワーを浴びて着替えを」と裸にされ、ガス室で一酸化炭素(CO)ガスを浴びさせられた。医師の死亡確認後は、研究のために一部は脳を摘出され、遺体はそのまま火葬された。

 41年8月に計画が中止されるまでの8カ月間に、ここで1万人以上が殺された。ドイツ国内にあった6カ所の施設のうち、短期間に多数の死者を出した点でハダマーは突出している。

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 記念館は、今も使われている精神科病院の建物の一部を利用。建物の正面入り口から入った右側1階に展示室が続き、地下にガス室、手術台、火葬炉跡が残る。裏庭には、障害者を連行したバスが入った木造のガレージが保存されている。

 展示室には、犠牲者の記録が写真付きで並ぶ。

 「看護師だったパウラは第1次大戦で精神を病み、30年代は入退院を繰り返す。41年5月、ハダマーへ。その直前、当時15歳だった娘に残した言葉は『また会えるかしら』だった」

 「6人の子どもの父親だったエルンストは統合失調症と診断され33年以降、医療施設で生活する。41年初め、母親に『命が危ないので、すぐに施設から出して』と懇願。3月末、ハダマーから死亡通知が届く」

 「4人の子どもの母親だったエミリエは31年、抑うつ症で施設へ。夫も親戚も面会禁止のまま41年2月、ハダマーへ送られるが、死亡通知は『3月、別の施設で』となっていた」

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 41年の計画中止で、ガス装置はポーランドの強制収容所に移され、ユダヤ人の大量虐殺に使われた。

 火葬場は閉鎖され、ハダマーは精神科病院に戻った。しかし、安楽死計画は形を変えて45年3月の米軍による解放まで続けられた。

 それはナチスの指示ではなく、地元の医師たちの判断で行われた。障害者だけでなく強制収容所の疾病者や「反社会的分子」とみなされた人、ユダヤ人との結婚によって生まれた子どもまで、5千人近い人が毒物を注射されたり、餓死させられたりした。

 戦線拡大に伴って、傷病兵や空襲負傷者のための医療需要が増大したことが、それを正当化させた。

 戦後、ニュルンベルク裁判などを通じて関係者は罪を問われたが、50~60年代、安楽死計画は存在を否定され、忘れ去られていった。「そんなことはなかった」「あったとしてもヒトラーがやったこと。われわれには関係ない」という理由からだった。その反省をもとに記念館ができたのは、ようやく80年代末になってからだ。

 ナチス史が専門の歴史学者でもあるシュルト館長はこう力説する。「歴史を否定しようとしたことは誇れない。罪を伝えていくことは、歴史的にも教育的にも重要なことだ」

 記念館には昨年、1万7千人を超える人が訪れた。その中心は若い世代。取材の日も、近郊の高校生のグループが熱心に展示に見入っていた。「とても悲しい場所。負の力がいっぱいだ」と熱っぽい顔で話したのは男子生徒のミヒェル君。「ドイツ史の重要なポイントに触れることができたことはよかった」

 病院の裏手には42~45年に集団墓地があった丘が続いている。そこに立つ記念碑にはドイツ語でこう刻まれている。

 「人間よ、人間に敬意を」

ナチス「安楽死」計画
 「民族の血を純粋に保つ」という思想に基づいてナチス・ドイツが行った「劣等分子処分」計画。障害者らに対し「安楽死」を実行する権限をヒトラーが医師に委任した。本部があったベルリンのティアガルテン通り4番地から「T4計画」と呼ばれた。
 第2次世界大戦開戦直後の1939年10月に開始。各地の精神医療施設などから集めたリストを基に「処分者」を決定し、安楽死施設のガス室で殺害した。41年8月、キリスト教関係者らの批判を受け、ヒトラーが計画中止を命じるまで、全国6カ所の施設で7万人以上が犠牲となった。

=2015/05/31付 西日本新聞朝刊=

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