差別の中 協力強いられ

 戦争の進行の中で、障害者はどう人権の侵害を受け、どんな行動を強いられたのか。また戦後も、戦争による傷でどう苦しみ続けたのか。そして、私たちは障害を通して戦争をどう捉え、行動すればいいのか。精神障害者をガス室で殺りくし、ユダヤ人虐殺に至ったドイツの歴史から考えるとともに、日本の専門家2人の分析を紹介する。

日本盲教育史研究会事務局長 岸 博実氏
 障害者は古来「前世や先祖の悪行の報いを受けている」という因果応報思想からくる差別を受けていた。明治時代に徴兵制度が敷かれると、そこに「軍人になれない」という新たな負の評価が加わった。「役立たず」「穀潰(ごくつぶ)し」「非国民」といった批判にさらされた上、家の中に閉じ込められた人もいた。

 空襲が始まると、障害者は「足手まとい」との論調も出てきた。京都府立盲学校で行われた生徒向けの講話では「食べ物に不平を言わない」「人手を煩わせない」「かんしゃくを起こさない」ことは戦争貢献になると説かれた記録がある。いかにも正しいように聞こえるが、現実には、障害者に負担を強いるものだった。

 学童疎開でも障害者への差別があった。国民学校の疎開先は行政が責任を持っていたが、盲・聾(ろう)学校などは学校長や教職員が自ら探した。戦後の復帰も後回しになり、東京の光明特別支援学校の場合は4年もかかった。長崎の佐世保盲唖(あ)学校のように、空襲で焼失して廃校になったところもある。

 障害者も戦争協力を求められたが、そこには社会参加という意味付けがなされた。各地の盲学校ではマッサージ技術を生かした軍人や労働者への治療奉仕、音楽慰問や食料増産に取り組んだ。弁論大会の記録を見ると、奉仕活動を通じて「こんな私でもお国の役に立てる」と語られていた。障害者への重圧がうかがえる。

 視覚障害者の聴覚を活用しようとした例もある。来襲する敵機をいち早く発見するため、戦闘機の音を聞き分ける訓練が行われ、監視要員として石川県では実際に配置された。戦争初期は目の良い健康な男性が従事していたが、人手不足になると女性が、続いて視覚障害者が駆り出されたのだ。

 一方で戦争は障害者のケアを進展させた側面もあった。日露戦争で多くの傷痍(しょうい)軍人が生まれたのを機に、国は「廃兵院」を設置。国民の戦意喪失を避けるために、傷痍軍人の治療と社会復帰に取り組む必要があった。視覚障害者にとっては、失明軍人に対して盲学校の教員になる道が開かれたり、工場で働く試みが始まったりしたことが、環境改善の足掛かりとなった。

 視覚障害の研究も進んだ。銃の照準を合わせるための視力を持った人材を漏らさず確保するため、視力や色覚検査が発達した。徴兵検査でうその視覚・聴覚障害を見破るポイントを列挙したマニュアル本も残っている。子どもたちに対しても、当時失明の一要因となっていた感染症予防が重視された。「目は武器」と見なされた時代、人間は尊厳を備えた存在として扱われず、殺人兵器と見なされた。そんな社会は障害者だけでなく、健常者にとっても幸せとは言えないだろう。

岸 博実(きし・ひろみ)
 1949年、島根県生まれ。広島大教育学部卒。74年から京都府立盲学校教諭。現在は非常勤講師。2012年から日本盲教育史研究会事務局長。13年から滋賀大学非常勤講師も兼任している。盲学校の教壇に立つ傍ら、視覚障害者の戦争体験談や資料を収集してきた。「点字毎日」や専門誌への寄稿多数。

=2015/05/31付 西日本新聞朝刊=

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