【御三家筆頭 尾張徳川家の至宝】<2>藩政改革の時代 中興の名君 宗睦

宗春着用の「赤羅紗地桐に鳳凰文火事頭巾」と「白羅紗地葵紋付唐獅子牡丹文火事羽織」(18世紀、徳川美術館蔵) 拡大

宗春着用の「赤羅紗地桐に鳳凰文火事頭巾」と「白羅紗地葵紋付唐獅子牡丹文火事羽織」(18世紀、徳川美術館蔵)

 尾張徳川家は五代五郎太(1711~13)が3歳で早世したため直系は途絶え、三代綱誠の十二男・継友(1692~1730)が六代を継ぎます。継友は七代将軍家継が8歳で没した後、将軍後継候補となるものの、後継は紀伊徳川家の吉宗となり、将軍となることはかないませんでした。

 継友が没した後、継友の弟で三代綱誠の二十男・宗春(1696~1764)が、1730(享保15)年に家督を相続します。この時、八代将軍吉宗は「享保の改革」を断行し、質素倹約を旨とする緊縮財政を展開していましたが、宗春はこの政策に真っ向から反対します。

 宗春は自ら派手な衣装をまとい、興行、遊郭を奨励するなどの積極財政を進めたため、名古屋は空前の活況をみせました。しかし財政的裏付けの無い経済政策だったため財政は破綻し、風紀が乱れたことで宗春は支持を失い、39(元文4)年に吉宗より隠居、謹慎を命じられて失脚します。

 宗春の跡は、分家の高須松平家当主だった宗勝(1705~61)が八代を継ぎ、九代宗睦(1732~99)との二代に渡って藩政改革を進めました。特に宗睦は人材育成、軍制改革に力を注ぎ、藩校・明倫堂を設立したほか武備を充実させました。改革に成果を挙げた宗睦は尾張藩中興の名君とたたえられています。

(徳川美術館学芸員・原史彦)


=2013/10/11付 西日本新聞朝刊=

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