【御三家筆頭 尾張徳川家の至宝】<3>十四代慶勝の登場 対立の時代を経て

慶勝所持の(上から)「石首魚石入蝋色塗刀拵」(1857年、徳川美術館蔵)「石首魚石入蝋色塗脇指拵」(1854年、同) 拡大

慶勝所持の(上から)「石首魚石入蝋色塗刀拵」(1857年、徳川美術館蔵)「石首魚石入蝋色塗脇指拵」(1854年、同)

 九代宗睦は、跡継ぎの男子に次々と先立たれたことで、一橋家より十代斉朝(1793~1850)を養子に迎えます。

 そのため、宗睦の死によって義直以来の男子血統は断絶します。以後、尾張徳川家は十一代斉温(なりはる)(1819~39)、十二代斉荘(なりたか)(1810~45)、十三代慶臧(よしつぐ)(1836~49)と、半世紀にわたり将軍家周辺より養子を迎えました。

 将軍家からの養子が優先されたのは、幕府からの財政援助をもくろむ藩重臣たちの思惑があったからです。重臣たちは反対意見を押し切って将軍家からの養子を強行したため、藩内対立が激化し、反対派はこれを「押しつけ養子」と呼んで、分家の高須松平家からの藩主擁立を計りました。

 十四代慶勝(1824~83)は、藩内闘争の末に実現した分家出身の藩主で、その期待に応えた政治を行いますが、井伊直弼と対立して失脚します。弟の茂徳(1831~84)が十五代となるものの、卓越した政治力を買われて慶勝は復権し、茂徳が退いた後、実子の十六代義宜(1858~75)を後見して、激動の幕末、明治維新を乗り切ります。

 尾張徳川家は維新後も侯爵家として高い格式を有しました。伝来の什宝(じゅうほう)は、近代以降も散逸を免れ、十九代義親(1886~1976)によって1935(昭和10)年に設立された徳川美術館に引き継がれています。

(徳川美術館学芸員・原史彦)

=2013/10/13付 西日本新聞朝刊=

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