美と格式<上>「尾張徳川家の至宝」展

むずかる赤ん坊に乳を含ませる雲井雁(中央)に夫の夕霧(左)が「どうした」と声を掛け、乳母(右)が見守っている。燭台や、物の怪を追い払う米を入れた容器も見える=国宝・源氏物語絵巻横笛(部分。10月27日まで展示) 拡大

むずかる赤ん坊に乳を含ませる雲井雁(中央)に夫の夕霧(左)が「どうした」と声を掛け、乳母(右)が見守っている。燭台や、物の怪を追い払う米を入れた容器も見える=国宝・源氏物語絵巻横笛(部分。10月27日まで展示)

桜の木を賭けて囲碁を打つ大君(盤の向こう側)と中君(盤の手前)の姉妹。顔は見えない。その様子を垣間見する蔵人少将(右端)。周囲で侍女たちが対局を見守っている=国宝・源氏物語絵巻竹河(二)(展示期間は11月12~24日) 詞書には金銀の箔など技巧の粋が尽くされている。書体には、流麗なものもあり力強いものもある=国宝・源氏物語絵巻横笛詞一・二(10月27日まで展示中) 石山寺本堂「源氏の間」の紫式部人形。その目は自己の内面を見つめているようだ

 ■国宝「源氏物語絵巻」 貴族の暮らし 艶やか
  ●横笛 
 おー、よしよし、どうしたの? 怖い夢でも見たの? お母さんがいるから大丈夫よ。安心しておねんねしなさいね。

 夜泣きをしてむずかる赤ん坊に胸をはだけておっぱいを含ませ、あやす母親の声が聞こえてきそうだ。源氏物語の本文や国宝・源氏物語絵巻「横笛」の帖にそのような詞書(ことばがき)はないけれど。

 絵の中央付近に燭台が置かれていることで夜と分かる。柱の左側から、起きた父親が気掛かりそうにのぞき込んで妻に聞く。

 「おや、いったいどうしたんだい?」

 父親は光源氏の嫡男、夕霧(ゆうぎり)。この場面では28歳。母親はその妻、雲井雁(くもいのかり)(雲居雁)。30歳。ふたりは幼なじみで、大恋愛の末に結ばれた。妻が言葉にとげを含ませて夫に言う。

 「あなたが若い人みたいに夜ふらふらと出歩いて、夜更けの月見に格子を上げたりなさるものだから、きっと例の物(もの)の怪(け)が入ってきたんだわ」

 だから急に赤ん坊が泣き出したのよ、ふん、と言った表情である。

 しかし、雲井雁が夕霧をなじった本当の理由は、夫が夜歩きをするのは自分以外の女性と会うためと気付いていて、やけるからだった。

 九州国立博物館の研究員、鷲頭桂さんが語る。

 「夫婦間の心理的な応酬劇。一夫多妻の貴族社会ですが、それでも、まさか、信じていたのに…という雲井雁の心の動揺が、この場面から伝わってきます」

    ×    ×

 「横笛」は、52歳で亡くなる光源氏晩年の49歳の時。光源氏の親友でライバルでもあった頭中将(とうのちゅうじょう)の息子、柏木(かしわぎ)の一周忌のころで、音楽の才に恵まれていた柏木遺愛の横笛が人から人へと渡り、光源氏の手許に届く。柏木の死は、光源氏の妻の女三宮(おんなさんのみや)との密通が光源氏に悟られ、それを苦にして病んだからだった。この帖には柏木が奏でる笛の音がBGMのように流れている気がする。

 夕霧が夜歩きをして会いに行った女性は、今は亡き柏木の妻、落葉宮(おちばのみや)なのだった。

 絵に戻ろう。雲井雁と向き合うように座り横顔を見せているのは乳母である。当時、位の高い女性は自分で授乳せず、乳母にさせていた。雲井雁は、もっぱら赤ん坊をあやすために授乳の動作をしているのだ。

 雲井雁と乳母の間に置かれている丸い容器には米が入っている。「これは散米(うちまき)(撒米)といって、当時、物の怪を追い払うために米をまいたのです。現在の節分の豆まきのようなもの」と徳川美術館副館長で学芸部長の四辻秀紀さん。

 「源氏物語絵巻には平安朝貴族の美意識が凝縮されています。加えて、宮廷内で当時行われていた習俗を齟齬(そご)なく伝えてくれる点でも非常に興味深く貴重です」

 絵巻は紫式部が11世紀に源氏物語を書いてすぐに描かれ始めたと考えられているが、徳川美術館と五島美術館が収蔵している国宝の「源氏物語絵巻」は約1世紀後に描かれた、現存最古のものである。

 目はすっと細く切れ長に、鼻は〈く〉の字型に描く「引目鉤鼻(ひきめかぎはな)」、屋根や梁(はり)を取り払って斜め上から室内を鳥観するように描く「吹抜屋台(ふきぬきやたい)」。こうした描法は、源氏物語絵巻によって確立したと考えられている。

 ところで、雲井雁の右耳の辺りをよく見ると、彼女の耳たぶが見える。おっぱいを含ませている赤ん坊の顔に自分の髪がかからないように、髪を耳にはさんでいるのだ。

 今の時代では耳を出すも出さないも自由だから、どうと言うこともない情景だが、当時の貴族社会では髪の〈耳はさみ〉は生活じみた庶民的な動作と見なされていたという。そう言えば、源氏物語絵巻に描かれた多くの宮廷女性で髪を〈耳はさみ〉にしている例はまず見つからない。

 源氏物語絵巻の作者については諸説あるが、当時の一流の宮廷画家が描いたとする見方が一般的だ。「本当に絵に破綻がありません。完成度の高さからすると数人の宮廷画家が分担して描いたのではないかと思われます」(四辻さん)。

 とすれば、画家は雲井雁の髪はさみ動作を、どんな意図で描いたのだろう。当時の貴族女性にとっての教訓としてなのか、それとも、堅苦しい決まり事など気にせずに生きる、おおらかで自由な女性像としてなのか。

 ●詞書

 絵の華やかさに目を奪われがちだが、「詞書も味わってほしい」と四辻さん。「地に金銀の箔など技巧の粋が尽くされている上に、書体も12世紀前半の流麗なものから後半の力強い筆致への新旧の変化を見ることができますから」

 ●竹河(二)

 「竹河(二)」の絵を見てみよう。光源氏はこの世を去って既に久しい。光源氏の子として育った薫(かおる)(実父は柏木)の、青少年期の帖だ。

 季節は春。時刻は夕闇が迫るころ。奥まった室内は既に暗いのだろう、明るみを求めて端のほうに場所を移し、姫君が碁を打っている。姉妹の大君(おおいぎみ)と中君(なかのきみ)である。

 絵の中央で満開の桜の所有権を賭けた三番勝負だ。美は細部に宿る。盤面に石を置く大君の指先は細くて美しい。当時の宮廷では男も女も碁を楽しみの一つとしていた。その様子を垣間見ているのは、夕霧と雲井雁の間に生まれた蔵人少将(くろうどのしょうしょう)だ。彼は大君に気がある。この絵は源氏物語絵巻の中でも一、二を争う色鮮やかな作品だ。

 ●構想時の姿を再現

 紫式部が参籠(さんろう)して源氏物語の構想を得たと伝えられる、琵琶湖南端にほど近い石山寺(滋賀県大津市)。その本堂内の「源氏の間」では、十二単(ひとえ)を着た紫式部が筆を取った手の動きを止め、宙の一点を凝視している。

 繊細で複雑な心理描写を駆使することなどから史上初の〈近代小説〉とされる源氏物語。この比類ない小説を生みだしつつある自己の内面を、彼女は見つめているのだ。

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 ●九州国立博物館、12月8日まで

 12月8日(日)まで、福岡県太宰府市の九州国立博物館で開催。徳川家康の九男、義直を初代とする御三家筆頭の名門大名、尾張徳川家の至宝を受け継ぐ徳川美術館(名古屋市)の名品を紹介する。武具類、茶の湯・香・能の道具類など約230件のほか、国宝「源氏物語絵巻」、国宝「初音の調度」を期間限定で特別公開(会期中に一部展示替えあり)。

 西日本新聞社など主催、積水ハウス特別協賛、福岡文化財団協賛。一般1500円、高大生1000円、小中生600円。月曜休館。11月4日(月・振休)は開館、5日(火)は閉館。NTTハローダイヤル=050(5542)8600。

=2013/10/17付 西日本新聞朝刊=

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