博多ロック編<180>夜明け前の地下室
福岡で初めてのロック喫茶「ぱわぁはうす」が同市博多区須崎に開店したのは1971年である。その年の冬、ブルースロックバンド「サンハウス」のギタリスト、鮎川誠が地下室への階段を下りて来た。
鮎川は九州大学農学部の学生でもあり、半年前に研修旅行の途中、東京・吉祥寺のロック喫茶に立ち寄っていた。「すごか音やった」。その大音響を残した耳に、博多にもロック喫茶が生まれたことが入った。「ロック喫茶ができた」。音楽仲間のうわさだった。
「サンハウス」の斥侯(せっこう)役として、まず鮎川一人で「ぱわぁはうす」の扉をあけた。最初、西南学院大生だった店主の田原裕介に声を掛けるのをためらった。
「偉大なロック喫茶ばい。とても、話せる雰囲気じゃなか」
何度か通ううちに田原のかけるレコードは「センスがいい」と感じた。鮎川はメニューの「牛乳」をよく注文した。「給食のくせが抜けない」と思いながらも大学の食堂でも牛乳を飲んでいた。
西南学院大学生で、この店のバイトに入っていた松本康が牛乳を出した。鮎川は持ち込みのコッペパンを食べ始めるのだった。時にはメニューにある「猫まんま」-かつお節を乗せたしょうゆ味の白ごはん-で腹を満たすこともあっ
た。
同じ農学部の学生、上田恭一郎も来た。鮎川は相談を持ちかけた。
「単位を取りやすい授業はどれやろ」
鮎川は留年を繰り返していた。上田は言った。
「この先生は大丈夫じゃないかな」
鮎川は7年かけて無事に卒業した。卒業論文は「農民詩と農民」だった。
× ×
毛利一枝、近藤悦子は友達に誘われて、この店に足を踏み入れた。20代半ばだった毛利は「客のうち私が最高齢だったかな」と言う。近藤は高校卒業後、現像会社に勤め、デザイナーだった毛利とこの店で知り合った。ある日、田原が2人に「壁に絵を描いてくれ」と頼んだ。
2人はペンキで1週間かけて仕上げた。鳳凰(ほうおう)や女性ヌードをあしらったサイケデリックな半抽象画だ。店のマッチも「レコード1枚」の謝礼で毛利がデザインした。
近藤はロック体験を「体に電流が走った」と言った。新しい音楽とスタイルへの共鳴と共感。若く、無名の、そしてそれぞれの夢を抱いた若い世代が集まった。
ロッカーたちは夜遅くまで大音響でレコードを聴いた。踊った。みなが目くばせした。
「そろそろ柄杓(ひしゃく)がでるぞ」
踊ると床から土足のほこりが舞った。田原がほこりを出さないように柄杓で水をまくのが常だった。
-地下室の小さな「ウッドストック」。夜明けが近づいていた。 =敬称略
(田代俊一郎)
=2013/10/29付 西日本新聞夕刊=