美と格式<下>「尾張徳川家の至宝」展 大名物「唐物茶壺 松花」 3人の天下人魅了

大名物「唐物茶壺銘松花」(高さ38.6センチ)信長、秀吉、家康という3人の天下人に愛された名品。当時の茶会記に頻繁に登場する 拡大

大名物「唐物茶壺銘松花」(高さ38.6センチ)信長、秀吉、家康という3人の天下人に愛された名品。当時の茶会記に頻繁に登場する

大名物「古瀬戸肩衝茶入銘横田」(高さ13.9センチ)縦長の茶入は極めて珍しい 「竹の子文志野筒茶碗歌銘玉川」(高さ9.7センチ)類似の文様を描いた陶片が岐阜県大萱で発見され、志野焼産地の再考を促した 名護屋城博物館で開催中の「秀吉の宇宙」で再現された秀吉の黄金の茶室(レプリカ)。神屋宗湛はこのような空間で「松花ノ御壺ノ極」の茶をふるまわれた=佐賀県唐津市、展示会は11月4日まで 美濃焼祭のイベントで、伝統の手回し轆轤(ろくろ)を使い、古式の「紐輪積みロクロ成形」を披露する青山双男さん=岐阜県多治見市

 天守台に初めて立った豊臣秀吉は、玄界灘を眺めながら、野心を大きく膨らませた。眼下の港は軍船で埋まり、城を取り巻く大名陣屋には続々と兵が集う。文禄元(1592)年春、名護屋城(佐賀県唐津市)。「唐入り」の時が迫る。

 同年5月、秀吉は城に諸大名を集め、大茶会を開いた。大名に交じって招かれた博多の豪商、神屋宗湛の『宗湛日記』によると、場所は「金ノ御座敷」。柱、天井、壁すべてが金色に輝く茶室でふるまわれた茶について、宗湛はこう記している。〈御茶、松花ノ御壺(つぼ)ノ極ナリ〉。現在、九州国立博物館(福岡県太宰府市)で展示されている「唐物茶壺(ちゃつぼ) 松花」(徳川美術館蔵)に納められた「極上の茶」であった。

 「松花」は南宋から元の時代に中国で製作された。形こそ典型的なルソン壺だが、「大量生産の日用品を茶器に仕立てた品ではなく、日本の趣味や需要に合わせて特別に作られた壺でしょう」と同美術館の原史彦学芸員は語る。白化粧土にかけられた灰釉(かいゆう)が深い暗緑黄色に光る。織田信長、秀吉、徳川家康という天下人3人の手が触れた壺と聞けば、あやしいオーラを感じざるを得ない。

 茶器がまとう権威と威光。約400年前の武将たちには、平成の私たち以上に重く感じられたに違いない。「なんとしても、あの天下の名物を!」。武将たちはこぞって、名物茶器の入手に血道を上げた。その多くはやがて、信長の元へと召し上げられていく。

 それにしても、壺や茶碗(ちゃわん)が時に一国に比するほどの宝としてもてはやされたのは、なぜか。その謎(なぞ)を「松花」に沿って探ってみよう。

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 信長が「松花」と出合ったのは安土城が落成した天正4(1576)年とされる。古文書に、信長〈ご機嫌斜(ななめ)ならず〉とある。当然だ。誰もがほしがる天下の名品。加えて、千利休の高弟、山上宗二の記録によると、昔は「珠光所持」とある。わび茶創始者ゆかりの品とあらば、なおさらだ。

 「最近の研究によると、信長は手当たり次第に名物を集めたのではなく、自らの権威の補強に効果的な品を選んだといわれています」。名護屋城博物館の渕ノ上隆介学芸員が教えてくれた。「昔は珠光が所持した」。あるいは「室町将軍家の東山御物だった」。名物の優れた出自と由来が、持ち主に威光を与えてくれる。武将たちも同じ価値観を持ち、名物にこがれ、間に豪商が入ることで、値はうなぎ上りに高騰していった。

 信長は茶を徹底的に政治に使った。どの茶器を自分のものにするのか、誰を茶会に招くのか、誰にどの名物を褒美として渡すのか-。綿密に計算し、家臣団のヒエラルキーと緊張に満ちたバランスを作り出した。茶会の開催も信長の許可が必要だった。最初に許された家臣は明智光秀。出遅れた秀吉はさぞや悔しがったに違いない。

 その秀吉もまた、茶を政治の道具として活用した。

 『宗湛日記』に「松花」が初めて登場するのは、天正15年1月の大阪城茶
会の記事である。本能寺の変から5年が過ぎ、「松花」は秀吉に渡っていた。膨大な茶器が披露された。まさに名物展示会。「これだけの名物がおれの手に集まったぞ。どうだ!」。秀吉の高笑いが聞こえてきそうではないか。「松花」のような信長伝来の品は、秀吉が正統な後継者であることを暗に物語ったはずだ。

 どうやら、秀吉はこの場で宗湛を特別扱いしたようだ。

 〈筑紫ノ坊主ドレゾ〉とわざわざ尋ね、「特別に器を見せよう」「飯をくわせよう」と歓待している。その都度、「筑紫ノ坊主」と「関白様」に呼ばれたと宗湛は明記している。よほどうれしかったのだろう。「坊主」とあるのは、宗湛が前年に剃髪(ていはつ)出家していたためだ。

 この時、秀吉はすでに朝鮮侵攻を見据え、北部九州を基地候補地に想定していたのではないか。秀吉の目には、豪商の財布が見えていた……というのはうがった見方か。宗湛は文禄・慶長の役で兵站(へいたん)補給に貢献、秀吉の側近として活躍した。しかし、世変わりとともに立場は一転。徳川家から冷遇され、寂しい晩年を送ることになる。

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 ここで、少し寄り道をして、九博で展示中の徳川美術館所蔵品で、室町から桃山に至る茶陶の歴史をざっと追ってみよう。

 まず珍重されたのは、「松花」のような「唐物」や「高麗物」という舶来品である。続いて瀬戸(愛知県)を中心に茶陶の製作が始まる。室町時代の「古瀬戸肩衝(かたつき)茶入 横田」はこの時期の名品。室町将軍家から信長、秀吉と渡り、長久手合戦の和睦の証しとして家康に贈られたとされる。

 織豊時代に入ると、わび茶の美意識を映した「桃山陶」の生産が始まる。例えば、「竹の子文志野筒茶碗 玉川」。昭和5(1930)年、陶芸家の荒川豊蔵が美濃(岐阜県)で「玉川」そっくりの陶片を発掘。その後の調査で、信長が美濃国を支配した16世紀、茶陶の生産拠点が瀬戸から美濃に移っていたことが判明したといういわく付きの逸品である。美濃は茶陶の一大生産地として、端正な「唐物」に対し、「人と違うこと」を是(ぜ)とした千利休の思想に沿うように、「ゆがみ」「ひずみ」を豊かにはらんだ美も生み出していく。

 話を名護屋城に戻そう。

 秀吉が玄界灘に夢を膨らませた年から約6年後、2度にわたる朝鮮侵攻は秀吉の死とともに頓挫する。この間、半島から持ち込まれた製陶技術は唐津や有田に伝わり、すぐに美濃にもたらされた。そこで、茶陶プロデューサーのような役を果たし、破調の美の極限を作り上げたのは、名護屋から美濃に戻った古田織部。武将であり、千利休の茶を継承した茶人である。

 破調の美は利休・織部の美意識の産物といわれるが、無名の陶工たちに伝わる伝統の力を指摘する人がいる。美濃古陶の研究を重ねてきた元美濃陶芸協会副会長の陶芸家、青山双男さん。「美濃に伝わる紐(ひも)輪積みロクロ成形という技法がひずみを生みやすかったことが、茶人の感性と結びついたのではないか」。ユニークな説は「焼き物の美は、技法の伝統とその土地の土と釉薬が融合して生まれる」という陶芸家ならではの確信に支えられている。

 慶長の役翌年の2月、宗湛は織部の茶会に招かれた。日記から、ゆがんだ茶碗の姿に驚き、あきれ果てた様子が伝わってくる。中国の美が日本で変奏を重ね、ついに時代を突き抜けた独創の世界に到達したことを示す貴重な証言だろう。

 〈セト茶碗 ヒツミ候(そうろう)也、ヘウケモノ(ふざけたもの)也〉

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 ●九州国立博物館、12月8日まで

 12月8日(日)まで、福岡県太宰府市の九州国立博物館で開催。徳川家康の九男、義直を初代とする御三家筆頭の名門大名、尾張徳川家の至宝を受け継ぐ徳川美術館(名古屋市)の名品を紹介する。武具類、茶の湯・香・能の道具類など約230件のほか、国宝「源氏物語絵巻」、国宝「初音の調度」を期間限定で特別公開(会期中に一部展示替えあり)。

 西日本新聞社など主催。一般1500円、高大生1000円、小中生600円。月曜休館。11月4日(月・振休)は開館、5日(火)は休館。NTTハローダイヤル=050(5542)8600。

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