平成とともに産声を上げた三つのビル、それぞれの運命 福岡流通戦争モノ語り(1)

 いよいよ2019年の本格スタートです。平成が幕を開けた30年前は、福岡市・天神にも「次の時代」がやってきた年でした。平成もあと3カ月あまり。ビルや乗り物の「かぶりモノ」を通して街を見つめてきた劇団「ギンギラ太陽’s」主宰の大塚ムネトさんと一緒に、福岡の激動の歩みをたどります。それでは、タイトルコールです!

 「qBiz×ギンギラ太陽’s 平成さよなら企画 福岡流通戦争モノ語り」

 

イムズとソラリア、吹き抜けに新風

 

 (大塚)ソラリアプラザの場所には元々「福岡スポーツセンター」がありました。大相撲の九州場所が開かれ、アイススケート場もある「コト」を体験する楽しい場所でした。今、ソラリアにスポーツクラブが入り、映画館もあるのは、ここが物を売るだけではなく「コト」も体験できる場所としての流れを受け継いでいるんだなあと感じます。


 そして、これはゴールではなく、西日本鉄道が掲げた一大街づくりプロジェクト「天神ソラリア計画」のスタートでもありました。後々、駅が大きく南に動くという、100年に一度と言っていいダイナミックな動きの始まりです。でもソラリアができたころ、僕たちは「街が変わる」というところまではイメージできていませんでした。

 <天神商戦“嵐”はらんで>

 1989年3月23日の西日本新聞夕刊、ソラリアプラザの完成を伝える記事には、こんな見出しが踊っていた。記事にはこうある。

 <四月十二日オープン予定のイムズ(地下四階、地上十四階)も含め天神商戦は一段と激化。人の流れを大きく変えることになるとみられる>。文字通り、天神の街はここから「嵐」を迎えながら、大きな変ぼうを遂げていく。

 ソラリアを追うように開業したイムズ。本紙は社説で<「地上十四階地下四階、金色に輝く八角形のデザインが奇抜>と評した。「インター・メディア・ステーション」の略。4階に自動車ディーラー4社が出店するなど、館内の至る所にショールームが並ぶ「情報発信基地」は、これまでの商業施設=物販という常識をくつがえすものだった。

 (大塚)天神のど真ん中に金ぴかのビルができる、これには驚きました。イムズのビル表面は金色の有田焼のタイル。かつて関係者に聞いた話で好きなエピソードがあります。「1枚だけ『本物の金の板がある』らしい」というジョークです。本当だったら面白い。名前の候補はイムズの他に、「オクトピア」「ミュー」など207案あったとか…。

 ソラリアとイムズは、福岡にとって新しい「吹き抜け型の高層ビル」だった。防災面を懸念した福岡市消防局がビル内部の広場の利用を制限するなどの、異例の防災指導をとった。

 (大塚)イムズで地下から上を見上げたときの衝撃は忘れません。イムズの前には「天神ファイブ」という施設がありました。その跡地開発に名乗りを上げた百貨店の玉屋は、吹き抜け構造の斬新なイムズ案の前にコンペで破れます。ギンギラの舞台では、「イムズの吹き抜けに玉屋を建てさせて!」という玉屋のセリフがお客さんの笑いと涙を誘っていました。

 (大塚)イムズは「演劇」という意味でも情報を発信してくれた。全国の小劇場の舞台をイムズホールに呼び、僕らは生で全国の演劇を鑑賞することができました。そして九州のがんばっている劇団を招く「憧れの舞台」だった。演劇人の背中を押してくれる存在でした。本当に感謝しています。

 

ユーテクよ、安らかなれ

 

 ソラリアプラザとイムズの開業を控えた1989年3月11日。「第2次天神流通戦争」の火ぶたを切ったのは、屋上に赤い看板を掲げた8階建てのビルだった。

 キャッチフレーズは“九州の秋葉原”。「ユーテクプラザ天神」は、101店が入居する電器専門店街としてオープンした。

 (大塚)第2次流通戦争で最初に誕生したユーテクが、最初に脱落してしまったんですよね…。福岡に秋葉原を作ろう、というコンセプトが、うまくいかなかった。秋葉原といえば、客と交渉したり、にぎやかな市場のような雰囲気。でも、そうはなりませんでした。

 ソラリアとイムズが客足を伸ばす中、ユーテクは売り上げ不振に苦しんだ。ビルを所有する第一生命に家賃が支払えず、訴訟に発展。1992年7月15日の本紙は<「一番大きな誤算を招いた要因は大手家電量販店、ベスト電器の入居」>という、当時のユーテク運営会社社長のコメントを紹介した。そしてこう続ける。<テナントは零細業者が多い中で、豊富な資金、品ぞろえを誇るベスト電器がプライスリーダーとなり、家電では秋葉原商法が影を潜めてしまったというのだ>

 (大塚)ユーテク撤退後の1994年、ビルはCDや本、靴などホビー関連の専門店を集めた「ジークス天神」に衣替え。男性をターゲットにした青い看板のジークスは04年、女性向けのファッションブランドを導入したオレンジ色の看板に変わりました。それでも苦戦し、最後はロフトになって、ついに成功しました。ロフトを入れたのはビルを所有する三菱地所。第2次流通戦争の「戦友」でもあったイムズを建設した三菱地所が結果的に、この施設を助けることになったのは感慨深いですね。

 ユーテクプラザが家電専門店街としての道を閉ざされた後、ベスト電器もヤマダ電機などの新興勢力との争いで低迷し、家電業界の再編が進んだ。

 (大塚)今、ロフトに近い西鉄の高架下にはビックカメラが進出して、ある意味で家電の集積地になりました。「秋葉原を」の旗は、ビックカメラに受け継がれたと言えます。ユーテクはもしかしたら、時代を先取りしすぎていたのかもしれません。

 それでも、3施設の誕生は天神に大きなインパクトを与えた。このころから、天神に集まる若者は福岡県内だけにとどまらなくなる。若者たちは福岡と九州各地を結ぶJRの特急や高速バスの名前を冠して「かもめ族」「つばめ族」「フェニックス族」と呼ばれた。

 (大塚)第2次天神流通戦争は、天神を「福岡の天神」から「九州の天神」にスケールアップさせました。その立役者に、ユーテクもきっと入っていたと信じています。ちなみにギンギラはジークス開業のCMに出演。劇団で導入したパソコンもジークスで買いました。それでも公演では「国体道路を(南に)越したら天神じゃない!ジークス天神じゃなくて、ジークス『南天神』だ!」というセリフが、お客さんの共感を得ていました。

 

”第1次”にはせる思い

 

 平成とともに始まった「第2次天神流通戦争」。その先駆けとなった「第1次」の戦いは1970年代に繰り広げられた。

 博多大丸が呉服町から天神に移転、翌年には天神コア、天神地下街、ビブレ(当時はニチイ)、岩田屋新館が相次ぎ開業した。

 (大塚)幼かったころ、日曜日に家族全員で来る天神は遊園地のようなものでした。「世界のは虫類展」、屋上のプレイランド、レストランで食べて、おもちゃ売場で遊び…。実はお金はあまり使いませんでしたが、商品との出会いがあった。まだ、当時は商品をみることがすでに「コト体験」でした。まだ高度成長期から間もない時代、消費者にとっても「モノが豊富にあること」が「楽しいコト体験」だったのではないでしょうか。

 終戦後に発足した新天町商店街から「黒船」と恐れられたのは、71年にダイエーが開店したショッパーズプラザだった。

 (大塚)新天町は86の店舗がショッパーズの開店日に合わせてセールを打ちました。新天町60年史の言葉が印象的です。「86作戦、捨て身の特価奉仕」。かなり覚悟を決めています。これぞ「戦争」だったんだなあと。

 (大塚)当時、天神の商業集積地と言えば新天町と岩田屋。ダイエーは天神にとって、今で言う大型ショッピングモール的な扱いでした。天神の中で「都心vs.郊外」が行われていたような構図でした。

 ダイエーを率いた故・中内㓛氏は福岡に並々ならぬ情熱をぶつけた。今は福岡にその姿を見ることがなくなったオレンジ色のマーク。次回はその栄枯盛衰と「遺産」をたどりたい。

 

 

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