消えた「ファンタジ―」と残った心意気 ダイエーが押した福岡とギンギラの背中 福岡流通戦争モノ語り(2)

 1枚の写真がある。

 撮影日は1992年9月16日。建設が進むドーム球場を背に、一人歩く男性。ダイエー会長兼社長の中内㓛氏だ。西日本スポーツの1面、福岡ドーム元年となる翌93年から、チームの指揮を根本陸夫氏(99年死去)に託すのでは――という特ダネに添えられた写真だった。記事には、根本氏に会ったかを聞かれて「否定も肯定もしない。ノーコメントだよ」という氏の言葉が残っている。

 (ギンギラ太陽’s・大塚ムネトさん)中内氏は「福岡に愛されたかった人」だと思います。ダイエーは今、福岡にはありません。流通戦争の中で、残念ながら敗れていったダイエー、そしてそのトップだった中内さんはもう、「過去の人」なのでしょうか。そんなことはないと思います。

 記事の写真説明文には「“ドーム元年”に向け、新しい構想に思いをめぐらすダイエー・中内オーナー」とある。その通り、巨艦・ダイエーのトップとして、中内氏の頭にはさまざまなアイデアや思いが浮かんでは消えていたのかもしれない。

 (大塚)中内さんがダイエーの参考にしたのが、北九州市の「丸和」でした。ここは1956年に誕生した日本初のスーパーマーケット。創業した吉田日出男さんは、当時最新だったセルフサービス方式を導入し、よい品をより安く消費者に届けるという「主婦の店運動」を全国に展開。これに中内さんが共感して交流が始まりました。丸和が薬の仕入れに苦労した時には、もともと医薬品販売をしていた中内さんが協力しています。福岡が「ダイエー第二の創業地」となったのも、この丸和との縁がきっかけじゃないでしょうか。

 1963年に九州上陸を果たし、71年に旗艦店・ショッパーズを開店させたダイエー。その後は福岡で破竹の勢いで店舗網を広げた。そして流通業から初のプロ野球経営参入。勢いは誰しもが認めるところだった。

 (大塚)当時はスーパー同士の戦いも凄まじいものがありました。「九州一だった寿屋」の売り上げを抜いた時、ダイエーの社員集会では、オープニングに「宇宙空間を飛ぶ巨大なダイエーのマークが、寿屋のマークをレーザービームで爆破して飛んでいく」という強烈な映像が流れたそうです。

 

夢と消え、空に消え…

 

 そのダイエーが掲げたのが「ツインドーム計画」だった。一つはもちろん球場があるスポーツドーム。そして「レジャー」「カルチャー」「ショッピング施設」などで構成される「ファンタジードーム」を併設するという構想だ。

 ダイエーはドーム建設に先駆けて、地下鉄唐人町駅とツインドームを結ぶモノレール構想を打ち上げていた。<平成4(1992)年前後をめどに建設完了の方向で検討>と報じられたが、福岡市が「ルートが適当でない」などとして差し戻し、その後紙面からもフェードアウトしていった。

 そしてスポーツドームの完成を伝えた華やかな本紙記事にも、1点の曇りがあった。ファンタジードームについては<目玉と期待されるファンタジードームは景気の後退などからまだ内容が固まっておらず(中略)その実現が最大の焦点となる>と、不安視する一文が末尾につけられていた。

 結局この懸念は的中し、ファンタジードーム構想は曲折を経て1998年に正式に断念。その後ホークスタウンとして生まれ変わることになる。

 ファンタジードームの影で、実は現地に温泉施設を作る計画も浮上。試掘し、お湯の湧出まで確認されたが、これも採算面などから「休止」に。温泉施設だけはダイエーの福岡事業売却後に開業したが、売り上げが伸びず5年で休業。こうしてモノレール、ファンタジードーム、温泉の「幻の3点セット」とでもいうべき夢は消えていった。

 (大塚)ギンギラの舞台ではこんなセリフがありました。「ファンタジードームが、本当の『ファンタジー』(幻想)と消える」。唐人町からドームにモノレールを走らそうとしたら、これは空中に消えました。最終的には、温泉も湯煙に消えてしまいました。

 球団を手にし、ドームとホテルを建設し、天神の店舗面積の1割を占めようとするほどの拡大を見せていたダイエーが走った90年代は、まさにバブル崩壊の局面だった。1998年、ダイエーが初の経営赤字に。弱かったホークスが常勝軍団への道を歩むのと裏腹に、常勝軍団だったダイエー本体は坂道を転がり落ちていった。

 (大塚)でも、ファンタジードームができなかったことよりも、バブル崩壊の苦境の中で、限りなく元の構想に形に近い物をつくったことは、すごいと思う。温泉も仕方ないですよね。ただ、一つだけ残念なのはモノレール。これがもしできていたら…。その後、今に至るまで続く渋滞問題は違っていたかもしれませんね。

 

壮大な取り組みの”原動力”は

 

 (大塚)ダイエーが福岡でやった壮大な取り組みを振り返ると、中内さんの「心意気」による部分が大きかったのではと思えてきます。

 象徴的なのが、開閉式にしたドームの屋根です。これは、福岡にできるドーム球場を「日本初の開閉式ドーム球場にして世界に誇る球場にするんだ」という、中内さんの心意気で誕生したそうです。ただし、開閉式にするためには、普通の屋根を作るよりもさらに費用がかかります。一回開閉するだけでも経費がかかり、先々のメンテナンスも大変です。

 ちょうど当時、全国にドーム計画がたくさんありました。どこの計画でも「開閉式にしたいけど、費用が・・・」と悩んでいました。各地の関係者は、開閉式を実現した福岡にヒントを求めて視察に来ましたが、「数字の積み重ねではなく、中内さんの心意気だ」との答えに、「うちの自治体では無理だ」とがっかりして帰ったそうです。「普通の行政、企業ではできないことを実現した」――。そんな話を聞くと、ぐっとくるものがあります。そこまで福岡のために行動してくれたんだなと。

 実は、福岡ドームはギンギラ太陽’sの「創業地」でもあったという。

 (大塚)第2次流通戦争を題材に始めた私たちは当時、公のステージを持っていなかった。ですが、福岡ドームにスポーツバーがあり、オフシーズン中の舞台にと声をかけてくれたんです。しかも、私たちがやったのはユニードとダイエーの生々しい合併話。それでもドーム関係者が「本当のことだから」と怒るどころか笑って許してくれたんです。

 スポーツドームの完成を伝えた1993年3月31日付の本紙記事の見出しは「九州にレジャー新時代」だった。ドームではその年のうちにマドンナとマイケルジャクソンがコンサートを行い、超大型コンサートは今や日常的な風景になった。

 ダイエーはその後、96年に誕生するキャナルでも核テナントとして入居。今やインバウンドの象徴とも言える複合施設の要を担った。そして福岡で30周年を迎えるホークスは「常勝軍団」の貫禄を身にまとっている。

 (大塚)中内さんと松下幸之助さんが対談した話、というのが有名ですよね。松下さんが「ナショナル(現・パナソニック)」というNB(ナショナルブランド)をつくっているときにダイエーがPB(プライベートブランド)で安いモノを作っていた。「商売の王道を歩みませんか」と言った松下さんに、中内さんがこう言いました。「(私は)覇道を歩みます」

 (大塚)そして中内さんは、「価格破壊の流通革命」という覇道を突き進みます。ナショナルブランドのメーカーと戦い、国の規制にもへこたれず、ついには「デパートを抜いて小売業日本一」という流通王にまで上りつめました。しかし、革命は革命によって倒されます。

 冒頭の写真で中内氏が一人歩いていた場所には昨秋、「マークイズ福岡ももち」が開業、連日にぎわいを見せている。子どもが遊べる広場や、階段状のベンチスペースなどゆったりとした空間は、日常の延長線上で楽しめる空間だ。

 あのオレンジのマークを福岡の街で見かけることはもうない。しかしダイエーが福岡で挑み、残したモノは、次の時代にも受け継がれている。

 

<連載リンク>
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