本館新館Zサイド…天神の「盟主」岩田屋、波乱の歩みと“勝利の方程式” 福岡流通戦争モノ語り(3)

福間 慎一

 平成の幕開けとともに、イムズやソラリアプラザが相次ぎオープンした福岡市・天神。以来、街は福岡県内のみならず九州中から若者を吸い寄せるようになった。

 その天神の中心に座り続けるのが「岩田屋」だ。1996年、その岩田屋が新たに開業させたのが「岩田屋Z―SIDE(サイド)」。それは翌年にエルガーラ、福岡三越が相次ぎ開館する「第3次天神流通戦争」の幕開けでもあった。

 「働く女性」をターゲットに絞り、ファッションの専門店をそろえた“とんがった”存在のZサイド。開店当日の本紙は<二階のファッション売り場の真ん中にアイスクリーム店があるのも、これまでの百貨店では考えられない>と驚いた。

 (ギンギラ太陽’s・大塚ムネトさん)ギンギラは、当時のZサイドを「買い物が下手でお金を使いすぎる『嫁ビル』」というキャラ設定にしました。イケてない商品をたくさん買って来る。そして夫である本館が「しょうがないなあ」とお金を渡す…そんなやりとりでした。

 福岡県外でもテレビCMを打ったZサイドには、開業当日15万人が訪れ、華々しいデビューを飾った。しかしその翌年の1997年2月期決算で、初の経常赤字に転落する。売上高の落ち込みは、Zサイドの不振が主因だった。

 (大塚)岩田屋はZサイド開店前に、品揃えをテナント任せにしない「自主編集」と「商品の買い取り仕入れ」を導入しましたが、当時はまだ社員が慣れていなかった面もありました。現場の「志はいいが、社員がついていけなかった」という声を覚えています。当時の岩田屋の志はまちがっていなかったのだと思います。

 斬新な存在として注目を集めたZサイド。しかし、その前段には大きな曲折があった。

 (大塚)今、三越が入っている西鉄の新ターミナルビルには「そのまま岩田屋が入居する」と誰もが思っていたのではないでしょうか?「岩田屋ではなく三越が出店する」というニュースは衝撃でした。

 Zサイド開業の4年前にあたる92年12月21日。岩田屋はそれまで検討してきた西鉄の再開発ビルへの出店断念を正式に通告。交渉決裂後、岩田屋はその代わりに西側にあるNTT跡地への進出を決め、Zサイドを開業させることになる。

 (大塚)岩田屋が求めていた売場の広さは2万平方メートルでした。これに対して、西鉄が示したのは半分以下の8700平方メートル。しかも1、2階には改札口やホームも入るので、売り場構成も分断されてしまいます。ただでさえ狭いのに、ターミナルデパートは「ハレの場」だけではなく「日常使いにも対応した店舗づくり」が求められる…。結局、交渉は決裂しました。

 

流通戦争の「エピソード0」

 

 (大塚)僕が岩田屋と西鉄の“破談”になぜそれほど驚いたかというと、両社はずっと、手を携えて天神の発展に尽くしてきたからです。

 (大塚)1936年、天神に進出した岩田屋は、九州鉄道(今の西鉄)から土地を買ってターミナルデパートとして開業。ちなみにこの時も、駅の場所は南に少し移動しています。駅が南下するのは2回目だったんですね。九州鉄道は、土地を売ったお金で大牟田まで延伸し、天神大牟田線が完成しました。

 天神を舞台にした「流通戦争」は、大丸の天神進出や天神コア、ビブレなどの開業が相次いだ70年代中盤が「第1次」と位置付けられる。しかしさらに戦前にさかのぼる36年10月7日、岩田屋が開店した日の九州日報(のちに合併して西日本新聞)は、こんな見出しで報じた。

 <福博デパート戦線大異状/闌秋を彩る、大商戦/いよいよきょう火蓋を切る/岩田屋デパートきょうから開店>
※闌秋=秋たけなわ

 まさに流通戦争だ。新参者の岩田屋を迎え撃ったのは松屋と玉屋だった。三者三様の臨戦態勢ぶりがにじむ記事を一部引用する。

岩田屋は
<絶対的勝利を全従業員に宣言、開店宣伝の字句にも自信のほどをにおわせて>、

玉屋は
<従来の大売り出しに数層倍する犠牲的優良品提供を敢えてしている>、

松屋は
<賞金穴探し投票などまさに堅陣死守の背水陣をしくもののようである>。

そう、これは天神流通戦争の“エピソード0(ゼロ)”だった。

 (大塚)今でこそ、人気商業地の天神ですが、もともとは官庁や学校が多く「天神は仕事に行く場所」でした。当時の商業の中心は博多。「買い物に行く」と言えば、博多に行くことだったんです。博多の呉服店だった岩田屋が天神出店を決めると、「さびれた天神では岩田屋はつぶれる」と博多っ子たちは噂しました。岩田屋の社史には、「今はさびれているが、だからこそ将来の発展が見込まれる」と決意の出店だったことが書かれています。

 

移転で道を切り開いた歴史

 

 時代は戻って平成。岩田屋は満を持したZサイドがふるわない中、翌年にはエルガーラと福岡三越がオープンした。半径200メートルに三つの百貨店がひしめく天神地区の百貨店の売り場面積は、一挙に2・7倍に。「第3次流通戦争」が表面化していた。


 厳しい戦いを繰り広げる岩田屋には、過酷な環境が追い打ちをかけた。西鉄福岡駅の改札口が南側に50メートル移ったことで、人の流れが変わり、さらに消費税率が 3%から5%に引き上げられた。

 1997年2月期、98年2月期、99年2月期と3期連続で経常赤字を計上。早期退職や体育館の売却などを進めたが、事態は好転せず、ついに99年夏、本館と新館の売却方針を決めた。99年8月18日付の本紙は<経営再建に向けついに最後の「切り札」を出すことを決めた>と伝えた。

 (大塚)もう岩田屋ってダメじゃないか。そんな「廃業」の噂も出た時期でした。売却方針が伝えられたとき、テレビ局から取材を受けました。「本丸を売ったらダメ」というコメントを期待されていたようですが、私は「岩田屋は、ここ一番の大勝負では移転することで勝利を手にしている。だから、これは勝利の方程式です」と答えました。結局、私のコメントは使われませんでした。

 (大塚)岩田屋は呉服店時代に侍の時代が終わりを迎え、城下町の福岡から博多へ移りました。そして昭和になって、新たな可能性を秘めた天神へ移ってきたんです。

 岩田屋勝利の方程式――。ギンギラらしい見立ての源流は、99年11月23日付の本紙の<戦国時代の山城 説明版作成>という小さな記事にヒントがある。記事にはこうある。

 <(当時の城主)小田部鎮元の重臣だった中牟田紀伊守の子孫にあたる、岩田屋の中牟田喜一郎会長も支援した>

 (大塚)去年、西新版ギンギラを作った時にこの荒平城の歴史を知り、「方程式」にようやく合点がいきました。中牟田家のご先祖は家老の「中牟田 紀伊守元正 ( きいのかみもとまさ )」。この城は籠城で滅び、中牟田家は逃げ延びて侍を辞めて商人になりました。

 (大塚)これは作家としての想像ですが、岩田屋の「ここ一番で動く」というのは、失敗に終わった籠城策が反面教師として残っているのではないか、そんな風に思えるんです。岩田屋が天神交差点の本店にこだわっていたら、本当に危なかったと思います。

 岩田屋は本館売却後、伊勢丹の支援を受けて廃業を免れた。一方の三越は2008年、その伊勢丹と経営統合。そして10年、伊勢丹傘下の岩田屋はかつてのライバル・福岡三越と統合し「岩田屋三越」に。合従連衡を経て、一度は断念した天神のターミナルデパートに再び関わることになった。

 (大塚)かつて「買い物下手」だったZサイドは今、頼もしい本館として生まれ変わり、隣で新たに新館となった夫ビルと「連絡通路で手に手を取って」仲良く商売をしています。さらに「岩田屋三越」となって、再び駅ビルとなりました。

 (大塚)さびれていた天神の未来を信じて出店した岩田屋。ライバルと商売合戦を繰り広げ、戦争も乗り越え、廃業の危機を本館売却と移転で乗り切り・・・。再び地域一番店として天神を支える岩田屋は、ギンギラのモノ語りに欠かせない大切なキャラクターです。

 その岩田屋を苦しめ、「第2次」をはるかにしのぐ激しさだった第3次流通戦争。次回は、岩田屋のライバルたちの戦いに、あらためて焦点を当てたい。

<連載リンク>
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