すべては「天神交差点」から始まった さよなら福ビル、そして街は次の時代へ  福岡流通戦争モノ語り(8)

 ちょうど130年前の1889年に「市」となった福岡の街。当時、畑だった天神は今、九州のにぎわいの中心へと発展した。その中心は、南北に貫く渡辺通りと東西に走る明治通りが交わる天神交差点だ。

 (ギンギラ太陽’s・大塚ムネトさん)福岡流通モノ語りもいよいよ最終回です。締めくくりは「天神の発展を支える交差点」のお話。途中にはこれまでの記事へのリンクもありますので、あわせて読んでもらえれば、福岡の流通史をモノ語りとして楽しめます。

 (大塚)さびれていた天神が賑わうキッカケとなったのは、1917(大正6)年、西鉄のご先祖である「九州電灯鉄道」の本社ビルが、天神交差点に誕生したことでした。このビルには立派な時計台があり、「天神の人気スポット第1号」となったのです。

 九州電灯鉄道の本社の向かい側、現在の福岡パルコがある場所には福岡駅があり、久留米まで電車が走っていた。

 (大塚)この福岡駅の土地を買った岩田屋がターミナルデパートとして開業し、駅は少し南側に移りました。九鉄は、土地を売ったお金で鉄路を大牟田まで延伸。岩田屋と、九鉄が力を合わせて、天神のにぎわいを築きます(第3回:天神の「盟主」岩田屋)。しかし、1945年6月19日の福岡大空襲で、天神は焦土になります。名所だった時計台も焼け落ちました。

 戦後、焼け跡から立ち上がった福岡。中洲では屋上に動物園を作った玉屋が子どもたちに笑顔を運び(第5回:ごりょんさん・玉屋との別れ)、呉服町では大丸が出店、帝国ホテルと一体となった優雅な空間をつくりだした(第4回:苦労の果てに幸せつかんだマダム大丸)。

 そして新天町商店街から復興が始まった天神も徐々に活気を取り戻す。そして1961年に完成したのが、天神交差点の南東角に建つ福岡ビルだった。

 (大塚)西鉄の本社が入るこのビルも、3月いっぱいでついに57年余りの歴史に幕を下ろします。振り返ると、そもそも、戦後の福岡でにぎわいのシンボルとしてできたのが、この福ビルでした。

 福ビルの場所にかつてあったのは郵便局。そして現在の天神中央郵便局の場所には福岡銀行があり、現在の福岡銀行本店ビルの場所には、天神町市場があった。なぜ、郵便局があった場所に、福ビルができたのか。

 (大塚)ギンギラのブレーンとして頼りにしている地元の郷土史研究家、益田啓一郎さんに、福ビル誕生の経緯を聞きました。益田さんによると、もともとは「郵便局と福岡銀行との土地交換」で銀行ができるはずだったそうです。その頃、天神町市場で火災があり、その再建の議論が進む中、「夕方で閉まり暗くなる銀行ではなくて、商業ビルを作って欲しい」との要望が出て、「銀行・郵便局・市場」の3つを交換する計画に変わったとか。

 (大塚)この時に働きかけをしたのは天神町発展会、現在のWe Love 天神協議会だったそうです。前回、「天神の強さは横のつながりだ」と書きましたが(第7回:JR博多シティのコト消費)、その絆は戦後復興の時から始まっていたんですね。

 そうして1962年に開業した福岡ビル。開業当時は「西日本一のマンモスビル」「西日本一のデラックスビル」と言われた。ちなみに、天神交差点の福ビルの対角線上で一足早い60年に開館した天神ビルも本紙は「西日本最大を誇る」とうたい、<完全冷暖房付きのデラックス・オフィス・ビル>と表現している。

 (大塚)福ビルが提案したのは「新しいライフスタイル」でした。「インテリアのニック」があり、セントラルキッチン第一号があった外食レストランの「ロイヤル」がある姿は、デパートとは違う「元祖ファッションビル」。ヤマハが楽器と音楽を発信し、プレイガイドがあり…。「夕方に暗くなる銀行」ではなく、「にぎわいを発信する場所」としての使命を、見事に果たしてくれたんですね。


 (大塚)福ビルは、その後の天神コアにつながる「最新の食や文化を発信する拠点」だったと言えます。福ビル開業の14年後、76年に開業したコアの開店記念チラシ(記事下参照)は、「コト消費」をアピールしていて、まるで現在のチラシのようです。

 コア開業の5年前には、ダイエーが満を持して天神に進出し、圧倒的な店舗面積を誇る旗艦店・ショッパーズを開業。戦後の天神流通戦争に、いち早く名乗りを上げていた(第2回:ダイエーが押した福岡とギンギラの背中)。

 (大塚)当時、百貨店をはじめとしたライバル店がそろう中で、コアがやった「コト消費」という差別化は必然的なものだったと思えます。地下と屋上でつながった福ビルとコアはモノではなく「スタイル」を引っ張る存在でした。

◇◇◇

 その交差点の「冬の時代」ともいえるのが、2004年の岩田屋の本店撤退に伴うデパート不在期間だ。6年間に及んだ空白期間を経て登場したのが、福岡パルコだった。

 (大塚)ネットショッピングに押されてリアル店舗の元気がなくなった2000年代。過当競争で疲弊した福岡にやってきたパルコは、街にワクワクをもう一度もたらす大きなきっかけになりました。パルコと言えば、2005年の福岡沖地震で公演中止となったギンギラを助けてくれた恩人ビルです。そのパルコが天神の仲間になったことに縁を感じています(第6回:ギンギラの試練)。

 (大塚)パルコは天神出店の前に、「オーバーストアの天神で存在感を示す店とは何か」ということをものすごく研究しました。JR博多シティが「ワクワク」を生み出す「コト消費」に懸命に取り組んだように、パルコも、それを突き詰めました。パルコは、岩田屋が去り暗くなった交差点に明かりをともしただけではなく、天神全体の「ワクワク」の先頭に立っています。売り場面積も徐々に広がり、今や天神最大です。
 
 パルコは、ライバルであるはずの他店を含む天神全体から歓迎された。今や名物とも言える商業施設同士が励まし合う懸垂幕は、ギンギラの「擬人化」が町に逆輸入された感もある。

 (大塚)ギンギラに登場するパルコは「天神の妹分として誕生しましたが、今では天神最大の売り場面積を誇り、妹分からの親分になりました!」と宣言します。そして他のビルたちに「あんた、そんな企画で博多に勝てるの?」とワクワクを追求するキャラとして人気です。

◇◇◇

 天神交差点は、にぎわい以外の取り組みや施策でも「中心」であり続けてきた。1989年には福岡県警が渋滞緩和策として「全国初の声が出る信号機」を設置。その2年後の91年にはこの交差点を中心に自転車放置禁止区域が設定され、2013年の自転車押し歩き条例もこの交差点から渡辺通り西側歩道を南に指定した。翌14年に始まった「福岡マラソン」のスタート地点もこの付近だ。

 (大塚)交差点を南北に走る渡辺通りには「明治時代に渡辺與八郎が私財を投じて作った路面電車・博多電気軌道」が、東西を走る明治通りには「松永安左エ門が作った路面電車・福博電車」が走っていました。

 (大塚)交わっているのは線路だけではありません。福岡の発展を支えた方々も、この交差点で出会っています。松永安左エ門は、阪急を創業した小林一三と大学時代の学友でした。その縁から松永は、岩田屋呉服店の中牟田喜兵衛に小林を紹介し、天神交差点に九州初のターミナルデパートが生まれます。後年、阪急はJR博多シティの核テナントにもなり、博多のにぎわいの中心にもなりました(第7回:JR博多シティのコト消費)。

 100年にわたる福岡の流通史で「中心」でありつづけた天神交差点。福岡市は、現在進んでいる大規模再開発「天神ビッグバン」の範囲についても、この交差点から半径約500メートルと位置付けている。この波に乗り、福岡ビルはまもなく閉館。そして2024年までに高さ96メートルの複合ビルに生まれ変わる。

 (大塚)戦後復興のシンボルとして、昭和の天神を支えてきた福ビル。その福ビルが、今度は天神ビッグバンの主役として建てかわる。「次の時代も、天神を支えるビルになるのだ」と言う決意に感動します。

 (大塚)ギンギラは平成元年の第2次天神流通戦争を描くことから始まりました。その中心はソラリアとイムズとユーテクプラザ(第1回:平成とともに産声をあげた三つのビル)。ユーテクはすぐに負け、あとを継いだジークスもダメでしたが、今はロフトとして人気です。ソラリアは西鉄の街づくりのシンボル。そして、ビッグバンの話題では脇役だったイムズも、驚きの「イムズ建て替え」を発表し、再び主役の仲間入りをしました(番外コラム)。

 「福岡流通戦争モノ語り」は平成から戦前にもさかのぼり、流通の停滞時には交通にも広がった。そして博多と天神という「二つの太陽」が福岡をさらに求心力の強い街に育てていく姿を追い、その原点である天神交差点に戻ってきた。そして次の時代も、モノ語りは天神交差点から始まることになる。

 (大塚)街のモノ語りはビッグバンに向けて、ますます盛り上がっていきます。福岡に住む私たちは、今まさに変化していく街の「目撃者」であり「当事者」。ギンギラ太陽’sは、これからも「激動していく福岡」をモノ語ります!


 ※「福岡流通戦争モノ語り」は今回で終了します。お読みいただき、ありがとうございました!

関連記事

PR

開催中

絨毯 キリム展 

  • 2022年1月13日(木) 〜 2022年1月17日(月)
  • 街角ギャラリーMIMOZA
開催中

現代版画2022

  • 2022年1月12日(水) 〜 2022年1月17日(月)
  • 福岡三越9階岩田屋三越美術画廊

PR