今なお街に残る30年前の遺産 福岡は「よかトピア」になっているか (2ページ目)

福間 慎一

 米倉さんは、学芸員として1984年に入庁した。88年に博物館準備室へ異動、アジア太平洋博事務局を兼任して平成を迎えた。よかトピアについて「序盤はガラガラ。梅雨時の平日は人の姿を見る方が少なかったほどでした」と振り返る。しかし期間後半になるにつれて「福岡らしいラストスパートで大混雑に」。特に、立体映像アニメを上映した「やまや」のパビリオンの人気ぶりが印象に残っているという。

 平成の間で、博物館に求められるものが大きく変わったと米倉さんは感じている。「“昭和型”の博物館でやることは展示プラス講演会。でも今はにぎわい作りが求められます。展示とは直接関係ないイベントもやるようになりました」。保存、研究から活用、集客へ。「コスト意識」が内外から求められる中では必然的な流れなのかもしれない。

 一方で、米倉さんが吐露する複雑な思もうなずける。「もし、博物館ににぎわい空間をもっと作るために収蔵庫が減る、ということがあれば、貴重な資料も見ることができなくなるかもしれない。この太平君たちのマスコットもそうです。昭和の良さを残しながら、新しいものをやっていくしかないのでしょうね」。

 福岡のように新陳代謝が激しい街にこそ、博物館が果たす役割は大きい。ここには、よかトピア関連だけで3951点もの資料が保管されているのだ。

 米倉さんは、今月で定年を迎える。「平成の始まりをこの施設で迎えて、平成の終わりもここにいるのは、とても不思議な気分ですね」と笑った。

 博物館跡地に整備された「昭和を知らない街」、百道浜地区にはほかにも、往時の記憶が刻まれている。博物館北側のバス通りの歩道に敷かれたタイルの中には、よかトピアのマークが刻印されたものがあるのだ。試しにマリゾン入り口交差点から百道浜小学校前交差点までの約300メートルを歩いてみたら、なぜか南側の歩道にだけ28個確認できた。

 「ミラー・セイル」に上った。30年前、福岡タワーの完成時に、公式の愛称として披露されているのだが、恥ずかしながらこの呼び名はまったく知らなかった。韓国や台湾からの観光客でごった返す高さ123メートルの展望室から見渡す街並みは、この先もまだまだ変わり続けるのだろう。

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 閑静な百道浜を離れ、福岡市中心部に戻る。ここにも、見逃せない「遺産」がある。

 それは川端商店街の入り口近く、1951年に完成したビルに入居する小さな「喫茶ふじや」の入り口のガラスに張ってある。博覧会の期間を知らせるステッカーに「昭和64年3月17日→9月3日」と記されているのだ。開催前年に配られたのだろうか。

 「あら、そげなとがあると。知らんやった〜」と店主の尾畑玉枝さん(82)は笑う。「いつか張ったっちゃろうけどねえ。もううちの店はのんきにやっとりますから、どんどん忘れるとよ」。戦後復興期から長い時代を超えてきた店内では「もう何十年も来よるばい。ババばっかりばってん」と、なじみになじんだ客の女性たちがおはぎに舌鼓を打っていた。

 石油ファンヒーターがよく効いた店から外に出ると、博多川を吹き抜ける風がひんやりして心地よい。新しさと古さが混ざり合う適度な「緩さ」と、整然だけを求めない「懐」こそが、平成の次の時代に福岡を「よかトピア(すてきな場所)」にする鍵だと思っている。

 あんたも食べんね、と店内で尾畑さんが一つ勧めてくださったおはぎ。少し渋みのあるコーヒーに、驚くほど良く合った。

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