忙しいけど、時間をつくって想像したい 敗戦を予感させた?73年前の「きょう(8.12)」の新聞

 今からちょうど73年前の1945年8月12日。西日本新聞の一面を見て、当時の読者は少し戸惑ったかもしれない。

 トップ記事の見出しは<正しく国体を護持 守り抜かん最後の一線 最悪事態に信念揺るがず>だった(読みやすいように句読点や仮名遣いを直しています)。記事の出だしはこうだ。

 <今やわが民族ならびに国民の直面しつつある事態が、●に空前の最悪を●●たることは既に何人も認めるところである>
(●は判読できず)

 長崎に原爆が投下され、ソ連軍が満州に侵入した8月9日以降も、本紙は太平洋戦争を「勝ち戦」として報道していた。<最悪事態>という言葉を使った12日付はその雰囲気とは少し違い、3日後に迫った敗戦の報を予感させ、その後の苦難への覚悟を求めるような紙面だ。

 記事の数行先には、こういう記述もある。

 <今更慌てることがあったら、これは最初から生きるか死ぬか、喰うか喰われるかの戦争を口先だけで言って実際には覚悟していなかったことになる>

□  □  □

 戦争の記憶をどうつないでいくか。先日、東京・紀尾井町のヤフー本社で開かれたイベント「未来に残す戦争の記憶〜戦争と地方紙〜」に話者の1人として参加した。

 戦後70年だった3年前に取り組んだ、福岡大空襲を現在の視点で再現した「再編集紙面」について話した。
(再編集紙面はこちらのビューワーで見ることができます)

 1945年の紙面では報道統制の中、<重要施設ほとんど被害なし><大福岡は健在なり>などの見出しで、福岡市中心部が壊滅的な打撃を受けた空襲の実相は報じられていなかった。

 イベントで話したかったのは、当局の報道統制の厳しさはもちろん、それに応じたメディアが、積極的に「空気」を醸成していく恐ろしさだ。

 当時は空襲時に「炎から逃げるな、消せ」という指導が徹底されていた。再編集紙面を作った際に印象に残ったのは、自宅の床下などに掘るよう指導されていた「待避壕」という言葉だ。

 校閲の担当者から「『退避壕』ではないか」と指摘されたが、当時、焼夷弾は「退く」ものではなく、「待機して」敢闘すべきものだとされていた。今では信じられない感覚だが、それがごく自然だった。

 福岡大空襲の再編集紙面を作る大きな参考にしたのが、戦後60年の琉球新報の企画「沖縄戦新聞」だった。1944年7月のサイパン陥落から1945年9月の南西諸島の日本軍の降伏調印まで、沖縄で起こったことを現代の視点で2004年 7 月から05年 9 月にかけ計14回にわたり紙面で報道し直した。

 ヤフーでのイベントには、新人時代にその取材班の一員だった琉球新報の玉城江梨子記者も同席し、戦争を伝える理由を「今の沖縄に繋がっていることを知ってほしいから」と話した。

 「現在の米軍基地問題は、戦争の記憶と結びつけられていない」と懸念する玉城記者は、「取材を通して、弱い人ほど苦しみが大きくなるのが戦争だと感じている」とも言った。本当に同感だ。

 イベントで初めてお目にかかった東京新聞の早川由紀美論説委員は「今も暮らしの中に“戦争”は潜んでいる」と話した。

 かつて学校の部活動で当たり前だった「水を飲むな」という指導。これも「我慢すれば勝てる」という発想に基づいていたと指摘する。今も取材記者を「兵隊」と呼ぶ人が少なくない新聞社にも、まだまだ戦争の残影はあるのかもしれない。

 そう遠くない将来、戦地をさまよい、空襲を逃げ惑った人たちの体験は聞こえなくなり、戦争は教科書や資料で学ぶ「歴史」になる。戦争を繰り返さない、想像する力や、想像しようとする努力が大事になっていくだろう。

 敗戦を予感させた冒頭の西日本新聞が届いた1945年8月12日は、今年と同じ日曜日だった。気象庁のデータによると最高気温が32.1度まで上がることになる暑い日の朝、せみ時雨の中で新聞を手に取り、福岡、九州の人たちは何を思っただろうか――。

 仕事や家のことで忙しいから、四六時中、太平洋戦争や平和について考えるのは到底無理だ。でもお盆のこの時期、少しだけでも、想像する時間をつくりたい。

 言わずもがなだが「なぜ戦争がダメなのか」も自分でももう一度、考えている。私にとって一番の理由は、その瞬間だけではなく、痛みや苦しみがその後も延々と続くからだ。

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