かしいかえん“謎”は解けました… 調査不足に恥じ入るばかり それでも残る「未解明」

 前回のコラムで、80周年を迎えた福岡市内唯一の遊園地「かしいかえん」にまつわる“謎”について書いた。太平洋戦争直前の1938年にチューリップ園として造成され、その後41年には西日本新聞社の前身である福岡日日新聞の名前を冠した「香椎福日園」に。終戦11年後の1956年に遊園地「香椎花園」としてオープンしているが、その間のいきさつがよくわからない、という内容だ。

 家族を連れて遊びに行くのに合わせて過去を振り返ったのだが、まず、調べが足りなかったことをお詫びします。記事公開後、かしいかえんを運営する西日本鉄道の広報課からあらためて連絡を受け、今年創業110周年を迎える同社の110年史編纂(へんさん)事務局を訪ねた。

 「(かしいかえんの)『80周年記念フォトグラフ』に年表を載せていますよ」

 社史の編集に携わり、このフォトグラフも手掛けた近代史研究家の益田啓一郎さんに教えていただいた。なんと入園券とセットで買えるこのフォトグラフに気付いていなかったとは。なんという失態だ。

 年表から、関係部分を抜粋すると――。
1940年 香椎チューリップ園が「福日チューリップ園」になる
1941年 博多湾鉄道汽船(のちに他社と合併し西鉄に)、香椎福日園前仮停留場を設置
1942年 博多湾鉄道汽船、運動場前停留場(現・香椎花園前駅)を設置
1943年 西日本鉄道、チューリップ園を戦時下の食糧増産のため閉園し、糸島農園(西鉄プラザの前身)管理下で農地となる
1946年 ノンプロ西鉄vs香椎タイガース(駐日米軍チーム)の試合が、運動場内に再整備された香椎球場にて開催される

 益田さんによると、香椎花園の土地は、チューリップ園の造成が始まる前年の37年に大部分が国から博多湾鉄道汽船に払い下げられた。1939年の開園当時は、チューリップの時期に合わせた4―6月ごろの期間限定でのオープンだったという。

 「福日園」になった理由は明示されていないが、益田さんはこう見る。

 「当時、福岡日日新聞の社長だった山口恒太郎氏は、博多湾鉄道汽船の取締役にも名を連ねている。当時の福岡の政財界トップはさまざまな企業で繋がっており、その流れで香椎花園が福日園になったのではないだろうか」

 当時の福岡日日新聞社は、百道の海水浴場の整備などレジャー関連事業にも力を入れており、チューリップ園に関してもスポンサー、今で言うネーミングライツ的な関わり方をしていたようだ。

 花園の横には野球場などを備えた運動場が整備されが、地元の「香住ケ丘校区沿革史」や「香椎町誌」などによると、福日園は42年6月に廃止。私鉄合併により誕生していた西鉄が翌年に「香椎園」と改称し、食糧増産のための農場に生まれ変わった。花園は田んぼやイモ畑になり、牛舎で牛も育てていたという。

 食糧増産を担っていた香椎園は終戦後、農地とみなされて農地法に基づき国に強制買収されそうになったが、西鉄がこの地に「文化遊園」を整備する条件で町と覚書を交わし、農地法の適用除外地として事なきを得た。

 運動場にあった野球場には、プロ野球の西鉄チーム(その後の西鉄ライオンズとなる)が本拠地を一時置き、駐留米軍チームと一戦を交えた。48年の国体では、バレーボールの会場としても利用された。西鉄はその後、覚書に基づき、この一帯12万平方メートルを再整備し、56年4月、晴れて「香椎花園」が開園した。戦後復興と軌を一にした歴史は感慨深い。

 で、一つ問題が残った。1956年4月に開かれた「香椎花園」だが、その開園を知らせる本紙の記事がない。各種資料のどこにも、正確な日付が残されていないのだ。

 同年4月25日付の西鉄社報には「花で埋まる 香椎、三万坪」の見出しで香椎花園に関する記事が掲載されているが、そこにある「実施計画図」にはバラ園やダリヤ園、ヘチマ園はあれども「チューリップ園」がない。管財課長のコメントには「三月には雨天が多かったので造園の振興予定が一寸狂った格好ですが(中略)四月以降(来年度)には八〇パーセント、再来年度には一〇〇パーセントの完成予定で」――ともある。

 この点について益田さんは「4月中には『一部開園』という認識。1959年4月10日に有料化するまでは、整備が済んだところから順次、観覧者に開放していたようだ」。開園翌年の1957年4月には、咲き誇るチューリップの写真と記事が本紙に掲載されているので、56年4月の段階では「開園」を華々しくはうたっていなかったのだろう。

 さらに、かしいかえんは博物館法に基づく「博物館相当の施設」という横顔も持つ。だが60年に文部省(当時)からそう認定されたその理由は、当時その事務を担っていた福岡県にも記録が残っていない。

 いずれにせよ、かしいかえんが幾多の苦難を乗り越え、福岡の人々に親しまれてきたことには何の疑問もない。住宅街に囲まれた園は校区の行事の会場にもなっており、地域にはより欠かせない存在だ。かしいかえんの松村耕平園長は「花を通した地域活動にもさらに力を入れていきたい」と話す。

 これからも咲き誇ってもわらなければ――。前回の記事と同じ終わり方で恐縮だが、その思いはさらに強まった。

PR

PR

注目のテーマ