幻の「平成通り」を知っていますか 福岡の歴史を走る貫線、次の時代の行き先は

 お寺の横を通り、大きな交差点を過ぎるとオフィス街へ。川を渡れば飲食店や映画館が軒を連ね、高さがそろったビルが並び、買い物袋を下げた人が行き交う。その先では水鳥が憩う城跡の堀を冷たい風が渡り、落葉を免れた歩道のクロガネモチやホルトノキの緑が揺れている――。

 福岡市の中心部を東西に貫く明治通りをゆっくり歩くと、あらためてその豊かな表情に感じ入る。正式名称は「市道千代今宿線」、最も市民に親しまれている道の一つだろう。

 博多区から西区までの全長10.2キロが「明治通り」と名付けられたのは1989年、平成元年の夏だった。福岡市制施行(明治22年)から100周年を記念し、他の道路とともに愛称を公募した。

 この通り、実は「平成通り」になるかもしれなかった、ということをご存じだろうか。

 89年8月10日付の本紙朝刊に、道路愛称決定の記事が載った。明治通りに関する部分に、驚くべき募集結果が記されている。

 <応募数は「平成通り」(143票)、「福博通り」(79票)などより極端に少なく23位の3票だった>

 なんと、圧倒的多数の支持は幕を開けたばかりの時代の名前を冠した「平成通り」に集まっていたのだ。昭和通りと国体道路に挟まれた大通りに、私たちは新時代の発展への期待を込めたのだろうか。

 「明治通り」は、わずか3票。ではなぜ――。記事は、選定理由としてこう続けている。

 <「道路の大部分が明治末期に整備され、市制施行時(明治22年)の元号を道路愛称として残すのは意義がある」>

 今となっては定着した愛称だが、異議はなかったのだろうか。当時の詳しい経緯は当局もわからず、福岡市史にも関連の記述を見つけられなかった。

 「平成」の愛称は幻となったが、市道千代今宿線の歩みはまさしく、平成の福岡そのものだった。通り沿いの博多・天神地区におけるランドマークの変遷を振り返りたい。


平成7(1995)年=アクロス福岡←旧福岡県庁舎
平成11(1999)年=博多リバレイン←下川端地区の商店街など
平成15(2003)年=呉服町ビジネスセンター←旧エレデ博多寿屋
平成18(2006)年=複合商業ビル「ゲイツ」←旧福岡玉屋百貨店
平成20(2008)年=オフィスビル「アクア博多」←旧博多・城山ホテル
平成22(2010)年=福岡パルコ本館←旧岩田屋本館
平成26(2014)年=福岡パルコ新館←旧岩田屋新館

 自然環境への配慮、商店街の再開発、郊外型店舗への客の流出、オフィス需要の高まり、そして商業地区としての天神の魅力復活――。そうした動きで、明治通り沿いは変わり続けた。

 この間、景観意識の高まりから電線は地中に潜り、警察合理化の中で大名の交番は別の場所に統合された。中洲の通り沿いには今はやりの「ガールズバー」や「相席居酒屋」もある。

 そして通りでは毎年、博多どんたくのパレードが行われ、福岡国際マラソンではデッドヒートが繰り返される。プロ野球のダイエーホークスとソフトバンクホークスは何度も優勝パレードを行った。

 あと1年4カ月で幕を閉じることが決まった平成。その名前を映してきた明治通りは、次の時代も、福岡の変ぼうの象徴になる。天神地区の明治通り沿いで進行中の「天神ビッグバン」がその中心だ。

 皮切りに、20年には旧西日本ビルなど5棟があった場所が「天神ビジネスセンター(仮称)」として生まれ変わる。そして航空法で制限されていた建物の高さ制限は、最大115メートルに緩和され、期せずして高さの調和がとれていた街並みは過去のものになる。17年春に創業支援施設に生まれ変わった旧大名小の跡地では世界的な有名ホテルの進出が取りざたされている。

 渡辺通りと交わる天神交差点の天神ビル(1960年築)と福岡ビル(61年築)の場所に新たなビルが建ったとき、平成時代の風景を覚えている人はどれだけいるだろうか。

◇   ◇   ◇   ◇   ◇

 天神から大濠公園を越えて西新へ。転勤族に人気のエリアでは2015年、岩田屋以来34年の歴史を刻んだ西新エルモールが閉館した。跡地について、東京建物は商業施設と高層マンションからなる新たな施設の計画を発表。次の時代が始まる19年度、商業施設の一部が先行開業する。

 明治通りを挟んでその跡地の向かいにある居酒屋「はんじょう(半升)」は1981年6月、西新岩田屋のオープン1週間前に開店した。大卒後、7年間の会社勤めから脱サラして店を始めた原田謙二さん(67)が、妻のみどりさん(63)と二人三脚で切り盛りしてきた。

 当時は店の裏に銀行の独身寮がたくさんあったという。原田さんは振り返る。各行の若手で店はにぎわい、夫婦はそれぞれのグループに小声で「ほかもみんな同業者だからね」と注意を促し、互いの内部情報がうっかり他行に漏れないように気を回していた。

 平成に入ってバブル経済が崩壊すると、「都銀は次々と独身寮を手放していった」。冬の時代が続き、しばらくするとマンションが建ち始めた。西新は相変わらず、転勤族が多かった。寮ではなく、借り上げ社宅としてマンションに入居するケースが多かったようだ。

 入れ替わり立ち替わりする客。みどりさんは「名前も顔も知ったお客さんだと、転勤した後も焼酎のキープボトルを流せなくて」と気配りを語る。かつての客が、出張などで福岡に来たときにふらりと来店することもしばしばあるからだ。

 新人時代に入り浸っていた会社員が、出世してお腹を揺らしながら訪ねてくることもある。「長くやっていると、そうやって助けられるんです。継続こそ力、ですかね」

 昭和から平成、そして三つ目の時代を迎えようとしている「はんじょう」。「もう、いつ閉まってもおかしくないですよ」と原田さんは笑うが、赤ちょうちんは今後もきっと、通りを小さく照らし続けるだろう。

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 かつて、明治通りは「電車道(でんしゃみち)」の愛称で親しまれた。路面電車の西鉄福岡市内線「貫線」が通っていたからだ。移ろう街並みを走る通りは、まさに福岡の歴史の「貫線」といえるかもしれない。

 余談だが、幻の「平成通り」で私が最も好きな風景は、中洲と天神を結ぶ西大橋から臨む博多方面の眺めだ。

 道路より少しだけ高い場所にある橋から通りを先まで見渡せば、明治通りの起点である千代2丁目交差点まで、青信号が見事にそろう。いい大人のくせに、その様子がなんとも爽快でわくわくしてしまうのだ。

 平成30年が始まる。仕事や生活で、黄信号や赤信号がつくことだってあるかもしれない。それでも、みなさんに一つでも多くの「青信号」がともる1年になりますように。

 

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