「尾張徳川家の至宝」展に寄せて 童門冬二

徳川義直画像(模本)桜井清香模写(1937年徳川美術館所蔵) 拡大

徳川義直画像(模本)桜井清香模写(1937年徳川美術館所蔵)

 ■義直と光圀  
 尾張藩初代の藩主徳川義直は家康の九男だ。家康が設けた御三家(尾張・紀伊・水戸の各徳川家)の筆頭に位置づけられた。名古屋市にある徳川美術館の本館に至る右側に、「蓬左(ほうさ)文庫」という、古文書の収蔵館がある。蓬左というのは“蓬莱宮(ほうらいぐう)の左側”という意味で、義直の命名だという。名古屋城の別名だ。蓬莱宮というのは熱田神宮のことだ。義直はこの神宮への尊崇心が強かった。

 かれは古代中国で聖賢(聖人は孔子、賢人は孟子)の説いた王道政治の実現をめざした。仁徳をもって民にのぞむ努力を惜しまない政治理念だ。尾張には古代から“あゆち”という伝承がある。海から吹いてくる“あえの風(幸福の風)”は、日本の中部に当たる尾張に上陸する。一種のユートピア(平安楽土)思想である。この伝承を日本全体に及ぼそう、という理想に燃えて天下事業を展開したのが、義直たちの先輩織田信長(だと私は思っているが)だが、義直の蓬左思想にもこの伝承が深く影響していると思う。

 そのため義直は儒教を重んじ、明からの亡命学者沈元贇(ちんげんぴく)を招いてブレーンにした。沈は書・文学・医学・薬学などを指導した。ういろう・カラクリ人形などが愛知県の諸所に残るのは、その影響かもしれない。義直は甥(おい)の徳川(水戸)光圀を可愛(かわい)がった。若き日に不頼の風のあった光圀が、向学の徒に変わり「大日本史」の編さんに生涯を注いだのも、義直の教えによる。光圀が学師と仰いだ明からの亡命学者朱舜水(しゅしゅんすい)も、義直のすすめによったものだという。朱は水戸で学問だけでなく、中華ソバのつくり方も紹介したそうだ。

 光圀はよく義直の所(江戸屋敷)へ遊びにきた。しかし行くたびにすぐ会えない。待たされていると、奥から謡曲を唸(うな)る声がきこえてくる。光圀が「伯父上か」と義直の側近にきくと「そうです」とうなずく。光圀はハハハと笑いだす。というのは、義直は気が短い。光圀は怒った義直が何度も部下に叱りつける光景に出会っている。そこである日義直にこういった。
「お腹立ちの時は、胸の中でひとおつ、ふたあつと、数をおかぞえになられたらいかがですか」。義直は黙っていつまでも光圀の顔をにらむようにみていた。光圀の助言は効(き)いた。義直は数をかぞえるかわりに、謡曲を唸ることにしたのだ。怒りが鎮(しず)まるとはじめて人に会った。脇からの諫言(かんげん)・苦言はよく聞いた。

 ある時義直は家中に対し、
「藩政を歪(ゆが)めている悪人を十人書き出せ」と命じた。申告書が出された。しかしいずれも九人まで名があがっているが、十人目は空欄になっている。義直は「十人目は誰だ」と聞いた。皆黙っている。やがて「十人目は殿です」と持田という武士が答えた。義直はカッとしたが、この時も光圀の苦言を思いだし心を鎮めた。持田は賞(ほ)められ加増されたという。義直は名君の名が高い。人の用い方がとくにうまかったという。重役のひとりが「現場で働いている甲という男を、殿の秘書にしたいと思いますが」と申し出た。義直はよかろうと承知した。ところが数日後、義直は重役を呼んで「甲を現場に戻せ」といった。重役が理由を聞くと、義直はつぎのように答えた。「わしへの面会者のうち、甲はわしを賞める者だけを通す。わしの耳に痛い苦言を告げる者は追い返してしまう。わしのためにならぬ」

 ▼どうもん・ふゆじ 作家。1927年、東京生まれ。東京都職員を退職後に作家活動に専念。60年に『暗い川が手を叩く』で芥川賞候補。主な作品は『小説上杉鷹山』『小説伊藤博文』など。歴史上の人物を題材にしながら、リーダー像、情報管理、組織マネジメントなど現代にも通じる側面を描き出している。

 ◇御三家筆頭 尾張徳川家の至宝 12月8日まで、福岡県太宰府市の九州国立博物館。入場料は一般1500円など。月曜休館。NTTハローダイヤル=050(5542)8600。

=2013/11/14付 西日本新聞朝刊=

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