被爆直後の広島「地獄だ」 本紙女性記者の入市確認 同僚、親族捜し取材も (2ページ目)

友好紙 一面

 西日本新聞社の在籍記録によると、43年に採用され45年3月からは企画連絡部所属の記者。翌年に東京支社編集部へ転勤するが、48年に依願退社していた。その後、入市被爆が認められ、被爆者健康手帳を取得した。

 上京した家族を支えるため銀座や新橋で飲食店を営み、一人息子を育て上げた。国に宛てた被爆50年の手記は「肝硬変を始め十一もの病気…一生被爆で苦しんで来た人生だったと思う」と結んでいる。

 母の遺影を祈念館に寄せた福永立夫さん(67)=東京都府中市=は、最期まで一緒に暮らした。「歩けなくなっても私の妻にも愚痴をこぼさない。気の強い人でしたが、原爆の広島で見たことは話したがらなかった」という。トシさんの妹喜代子さんは被爆11年後に20歳で死去していた。

 「西日本新聞百年史」(78年刊)は、広島壊滅時は出張からの帰途にあった元支局長の手記を収める。「本社から救援の」先輩男性2人の名前はあるが、福永記者には触れていない。

 一連の記録を調べた叶真幹・祈念館長(64)は「福永さんは、己斐町(西区)に置かれた臨時広島支局の様子も記している。地元には当時いなかった女性記者が救援や取材で入ったのは間違いない」とみている。
 (中国新聞)

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