博多ロック編<191>オリジナルへの脱皮
洋裁の専門学校に通っていた木村一枝は福岡市・周船寺の自宅で、ミシンをかけていた。着物の端切れを、着物店に勤めていた友人からこっそりともらい受け、縫い合わせていた。注文者は「サンハウス」の柴山俊之。採寸、仮縫いから本縫いに進んだ。ミシンの手を止め、柴山と初めて出会った17歳の高校時代を思い返すこともあった。
柴山は木村の兄、大神洋の友人だった。ある日、夜の訪問者があった。木村が戸を開けるとそこに、髪の長い柴山が立っていて驚いた。兄のところに泊まりに来たのだ。
木村は兄の影響で小学校高学年からビートルズなど洋楽を聴いていた。友人たちのGS(グループサウンズ)熱にも「どこがいいのか」と冷めた目で眺めていた少女だった。
この夜を契機の一つとして「サンハウス」が拠点にしていた福岡市・須崎のロック喫茶「ぱわぁはうす」にも出入りするようになり、ライブにも足を運んだ。
柴山からの服の依頼は兄を通してだった。柴山の要望は「着物の生地で和風に」で、デザインは木村に任せた。
「柴山さんはステージではすぐに上服を脱いで裸になっていた」
木村は脱ぎやすいデザインを考え、羽織風に仕立てた。柴山の初めてのオリジナル衣装が完成した。
「想像通りの出来上がりだった」
気に入った柴山は1972年、九州大学の学生会館ホールのコンサートでお披露目する。以後、木村は柴山の衣装係としてステージだけではなく私服などを含めて100以上の服をデザイン、製作することになる。
× ×
柴山がオリジナル衣装を着始めたのは自らを「菊」と名乗り始めた時期と一致する。
「素で歌うのは恥ずかしい。芸名を持とうとしたのはステージでは別人格になろうとした。ジョージやジョンといった芸名は似合わない。おれは日本人だからな」
日本の伝統的な美意識の象徴である「菊」は盗賊を扱った歌舞伎の演目「白浪五人男」の中の「弁天小僧菊之助」にヒントを得ている。
「アウトロー映画が好きで、『白浪五人男』も映画で観(み)ていた」
弁天小僧は女性の着物を着た、いわばユニセックスなアウトローだ。
長髪に加えた着物、化粧、菊。柴山の化身はなにに決別し、なにを得ようとしたのか。
「ブルースを含め、カバー曲は極め尽くした感があった。煮詰まった。バンドを辞めようかとも思った。残されたのは日本語のロックしかなかった」
最後に残された道。日本語のオリジナルロックだ。この路線選択はベースの浜田卓が抜ける痛みを伴った。その中で柴山は化身の軸、核である日本語の詞を白いノートに書きつけるのだった。
=敬称略
(田代俊一郎)
=2014/02/10付 西日本新聞夕刊=