みんなが集えるように。荒浜の空に打ち上げ花火

河北新報連載「あの日から」荒浜っ子⑤】全5回――

 東日本大震災の津波で多数の住民が犠牲になった仙台市若林区荒浜地区。浜の集落は災害危険区域に指定され、多くの住民が生まれ育った古里を離れた。あの日、「命のとりで」となった荒浜小は震災遺構に生まれ変わった。家族や家を失いながらも、災禍を生き抜いた荒浜っ子たちのあの日から10年の歩みをたどる。

 末永 新さん(25)

 50発の花火が、仙台市若林区荒浜地区の夏の夜空を照らした。昨年8月22日夜。近くであった灯籠流しに参加した元住民たちから歓声が湧いた。

 「新型コロナがあり、直前まで打ち上げていいか迷った。やってよかった」

 寄付を募って花火を打ち上げた長野県上田市の会社員末永新さん(25)が、安堵あんどの表情を浮かべた。

声を掛けていれば…友の顔は中学生のまま

 打ち上げ場所は、東日本大震災の震災遺構となった母校の荒浜小近く。祖父の代から暮らす自宅があった場所だ。

 震災当時は七郷中(若林区荒井)の3年生。卒業式を終え、友達と自転車でJR仙台駅方面に向かっていた時、大きな揺れに襲われた。「津波が来るから戻ってこないで」。母から電話で告げられ、七郷中に避難した。

 5日後、自宅を見に行った。倒壊した家屋や一帯を覆う泥水に阻まれ、たどり着くことすらできなかった。

 幼稚園の頃から毎日のように顔を合わせてきた親友=当時(14)=が津波に巻き込まれ、亡くなった。脳裏に浮かぶ顔は何年たっても中学生のまま。「一緒に遊びに行こうと声を掛けていれば助かったかもしれない」。後悔の思いは今も消えない。

 大学で土木を学び、2018年4月に大手建設会社に就職した。志願して19年12月までの間、石巻市や宮城県女川町の防潮堤建設などの復興事業で現場監督を務めた。お盆や命日には同級生と一緒に親友の墓に手を合わせた。

住めなくなっても、かけがえのない古里

 19年8月に「荒浜 夏のバーベキュー・大同窓会」を企画した。進学や就職を経て、同級生らの生活環境が大きく変わっていく。集まる人が年々減ってきた状況を何とかしたかった。イベントの後に灯籠流しがあり、一日を締めくくるのが花火だった。

 荒浜地区の花火は、四十数年前に青年団の若者が試みた時期が3年ほどあった。「荒浜の文化は若い世代が伝えなければなくなってしまう」。かつて地域の大人たちがそうしたように、昨年の元旦には初日の出を見に来た人たちに甘酒を振る舞った。

 今年も予定していたが、感染症の拡大で急きょ取りやめた。「今年中止したからといって途絶えるわけではない」。来年以降の再開を誓う。

 荒浜地区は災害危険区域に指定され、ほとんどの場所で人が住めなくなった。

 「地域がなくなっても、地元で何かイベントを企画していれば人々をつなぎ留められる。荒浜が好き。かけがえのない古里だから」

 今年の夏も荒浜で花火を打ち上げる。

 荒浜 仙台市若林区荒浜地区は市中心部から東に約10キロ。東日本大震災まで約800世帯2200人が暮らしていた。震災で高さ9メートル超の津波に襲われ、約190人が亡くなった。沿岸部は2011年12月、災害危険区域に指定された。海から約700メートルの荒浜小には高さ4・6メートルの津波が押し寄せて2階まで浸水したが、避難した320人が助かった。同校の児童91人のうち1人が犠牲になった。16年3月に閉校し、17年4月から震災遺構として一般公開されている。

(河北新報 2021年1月7日公開)

 

友好紙・河北新報「東日本大震災10年特集」はこちら

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