多くの人が勇気をくれた。自分はダンスで笑顔を

河北新報連載「あの日から」荒浜っ子④全5回――

 東日本大震災の津波で多数の住民が犠牲になった仙台市若林区荒浜地区。浜の集落は災害危険区域に指定され、多くの住民が生まれ育った古里を離れた。あの日、「命のとりで」となった荒浜小は震災遺構に生まれ変わった。家族や家を失いながらも、災禍を生き抜いた荒浜っ子たちのあの日から10年の歩みをたどる。

寺嶋 花恋かれんさん(17)

 仙台市泉区の小学校に2度招かれた。東日本大震災時の経験を話してほしいという。2017年と18年。「もう誰にもあんな思いをさせたくない」。その一心で依頼を受けた。自分の言葉で児童らに命の大切さを訴えた。

海から黒い煙のようなものが迫ってきた

 若林区の高校2年寺嶋花恋さん(17)。ダンスコースがある北海道芸術高の仙台校で学んでいる。震災時は荒浜小の1年生だった。生まれ育った荒浜地区では約190人が犠牲となり、家族を亡くして涙する友達の姿を見た。

 10年近くたっても、あの時の恐怖は鮮明に記憶に刻まれたままだ。

 間一髪だった。揺れが収まった後、荒浜地区の祖父母宅で母が運転する車に乗り込んだ。弟、曽祖母、祖母と一緒に、いったん内陸に逃げた。

 曽祖父は「津波は来ない」と家にとどまった。「戻ってはいけない」。祖母は止めたが、母は曽祖父を迎えに車を戻した。

 黒い煙のようなものが海側から猛烈な勢いで迫ってきた。家屋や樹木などを巻き込んでいる。

 「津波だ!」。曽祖父を急いで車に乗せて発進した。トラックが流されてきたのが見え、慌ててUターン。津波が車の1、2メートルまで迫る。母がアクセルを踏み込み、同乗していた家族6人の命は助かった。

 その晩は寒さに震えながら車内で過ごした。大きな余震が続き、車が揺れた。「荒浜で200~300人の遺体が見つかる」。ラジオが繰り返す。現実の出来事とは思えなかった。

 自宅は建物は残ったが、内部はめちゃくちゃ。荒浜小に近い祖父母宅は風呂場だけになった。

 荒浜小が打撃を受け、宮城野区の東宮城野小校舎で授業を受けた。若林区に借りた「みなし仮設住宅」から毎日約20分、スクールバスに揺られた。

 友達と会うのが楽しみだった。好きな韓国人アイドルやテレビの話で盛り上がった。学校に行けば震災前と同じような日々があった。

支援を背中に感じて生きてきた

 震災で予兆もなく暮らしが奪われた。被災して感じたのは「当たり前」のありがたさだった。「自分たちが震災の直接体験を語れる最後の世代かもしれない。経験を伝えることが誰かの役に立ち、支援への恩返しになるはず」と考えるようになった。

 機会があるごとに地域の未来や防災に強いまちづくりについて発信してきた。小学5年生だった15年には神戸であった防災教育発表会、仙台市であった国連防災世界会議の関連イベントに同級生らと参加した。

 ダンスは幼少期から好きで、よく家族の間で踊った。小学生の時、被災したお年寄りに韓国の女性アイドルグループ「KARA」などの踊りを披露すると喜んでくれた。プロになれなくてもいい。ダンスで人を笑顔にしたい。

 震災で多くを失った。でも、国内外からの多くの支援を背中に感じて生きてきた。「一緒に頑張ろう」。力強いメッセージに勇気をもらった。

 今度は自分が励ます番だ。

 荒浜 仙台市若林区荒浜地区は市中心部から東に約10キロ。東日本大震災まで約800世帯2200人が暮らしていた。震災で高さ9メートル超の津波に襲われ、約190人が亡くなった。沿岸部は2011年12月、災害危険区域に指定された。海から約700メートルの荒浜小には高さ4・6メートルの津波が押し寄せて2階まで浸水したが、避難した320人が助かった。同校の児童91人のうち1人が犠牲になった。16年3月に閉校し、17年4月から震災遺構として一般公開されている。

(河北新報 2021年1月6日公開)

 

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