「身を削ってでも」。人のために語る後悔と自責
【河北新報連載「あの日から」遺児①】全5回――
東日本大震災では、多くの子どもたちが大切な親を失った。岩手、宮城、福島の被災3県で遺児・孤児は約1800人に上る。悲しみや絶望の中で生きた10年。それぞれが周囲の支えや親の遺志をよすがに力強く人生を切り開いている。
高橋 さつきさん(20)
美容師と相談して明るめにした髪の色が、花柄の赤い晴れ着によく似合う。
宮城県東松島市で震災の語り部をする高橋さつきさん(20)が1月10日、同市の成人式に出席した。「ママもパパも『かわいいよ』って言ってくれるって信じてる」
もう少し強く、引き留めていたら
小学4年の時に震災が起き、巨大津波で父
母は1カ月後に出産を控えていた。あの日、自分を案じていったん小学校に迎えに来た両親は、予定日に備え、タオルなどを取りに海沿いの自宅へ戻り、母のおなかの妹ともども帰らぬ人となった。
「行かない方がいい」とは言った。けれど、引き留められなかった。もう少し強く、もう一度だけ、自分が声を掛けていたら、結果は違っただろうか。
中学3年で語り部を始めた。当初は家族を亡くした事実をただ話し、同情され、それでおしまいだった。次第に「同情だけでは聞いた人のためにならない」と考えるようになった。
「その人のためになるなら身を削ってでもやろう。自分ができることって、それくらいしかない」。両親を行かせてしまった後悔と自責の念を語り、同じ思いをしてほしくない一心で強調する。「周りの人が危ない方向に行きそうになったら、助けてあげてください」
語り部を続けるうち、リピーターも出てきた。神奈川のボランティア団体が2度目に来た時、メンバーの1人から「さつきさんの話を聞き、ある人を自殺から救えた」と伝えられた。後悔しないために行動しようというメッセージが、災害以外の場面でも誰かの役に立つと感じた瞬間だった。
家族で囲んだ食卓の記憶に導かれて
家族の生前の姿は、高橋さん自身にとっても折に触れ、人生の指針となった。
料理や菓子を作るのが好きだった母。被災地で失意に沈む周囲を何とかしたいと思った高橋さんに「おいしいもの、甘い物を食べればみんな笑顔になるはずだ」と気付かせたのは、家族で囲む食卓の幸せな記憶だった。
宮城県石巻市の宮城水産高で調理師免許を取得し、さらに1年、東京の専門学校でお菓子作りを学んだ。卒業試験でこしらえたショートケーキは断面の見栄えに気を配り、上部に刻んだイチゴを花びらのように飾り付けた。「食」を通じて笑顔を生み出す調理の仕事に、いつか就きたいと思う。
祖父は震災当時、地元の神社の獅子舞保存会で会長を務めていた。高橋さんも震災後に活動に加わり、2日の新年恒例の奉納行事でおはやしの太鼓を担当した。追い求めるのはばちを大きく振り、太い音を響かせた祖父の太鼓だ。
成長するほどに似てきた、母の筆跡
震災直後から遺児支援に取り組む、あしなが育英会とも長い付き合いになる。
石巻市の石巻レインボーハウスで高校3年の時に開かれたクリスマス会に、調理師になるための勉強の集大成として自分の包丁を持ち込んだ。カワハギの刺し身とアジのなめろうを作ってみせると、高橋さんの歩みを知る職員たちが盛り上がった。
あしなが育英会が震災から10年の節目にまとめる遺児らの文集にも協力している。昨年12月下旬、石巻レインボーハウスで原稿の確認をしながら、ふとつぶやいた。
「やっぱりさ、たぶん、家族って字が似るんだよね。さつきの字って、ママと似てる。もうちょっときれいだけどね、ママの方が」
自宅にあった手紙などは津波に流されて何も残っていない。母の筆跡は記憶の中にしかない。
それでも似ている、自分が成長するほど似てくると感じられるのはなぜだろう。懐かしい面影を探るように、高橋さんは少し丸っこい自分の字を見つめた。(関川洋平)
(河北新報 2021年1月11日公開)
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