母と同じ介護の道。大変だけど、やりがいがある

河北新報連載「あの日から」遺児④全5回――

 東日本大震災では、多くの子どもたちが大切な親を失った。岩手、宮城、福島の被災3県で遺児・孤児は約1800人に上る。悲しみや絶望の中で生きた10年。それぞれが周囲の支えや親の遺志をよすがに力強く人生を切り開いている。

横山 泰雅たいがさん(20)

 お年寄りの食事を介助し、着替えを手伝い、入浴の世話をする。昨年から月数回の夜勤も加わった。

 「入所者に頼られたり、世間話をしたり。大変だけれど、やりがいがある」

 宮城県丸森町の横山泰雅さん(20)は、母の背中を追うように介護福祉士になった。社会人3年目。福島県国見町の特別養護老人ホームで働く。

家を明るくしていた「ただいま」の声

 母志保さん=当時(35)=は東日本大震災の津波にのまれ、犠牲になった。一家は海に近い宮城県山元町中浜地区で暮らしていた。志保さんは北隣の亘理町の海岸に近いデイサービス施設に勤務。いったん避難したが、書類を取りに戻り、巻き込まれたという。

 横山さんは中浜小5年生だった。鉄筋2階の校舎は海岸から約400メートル。授業中に揺れ、屋根裏倉庫に逃げた。倉庫内の段ボールに上がり、鉄柱をつかんで第1波に備えた。

 校舎を襲った津波は最大で高さ約10メートル。2階天井近くまで達した。「衝撃を感じ、頭が真っ白になった」。横山さんを含む児童ら90人は倉庫で一夜を過ごした。子どもを迎えに来た保護者もいた。月明かりの下、流された車や家々が消えた集落が見えた。

 「やっぱり現実なんだ。家族は無事だろうか」

 翌朝、自衛隊のヘリコプターで救出された。同居していた祖父母、5歳下の弟と避難所で再会し、父俊一さん(51)も合流した。

 お母さんだけ、いない。「連絡が取れないだけ」と信じ、父と避難所を回った。一日一日と過ぎ、絶望感が深まる。2週間後、遺体が見つかった。

 朗らかで活発な人だった。「ただいま」という声が響くと、家の中がパッと明るくなった。趣味はママさんバレーボール。休日は散歩やピクニックに連れて行ってもらい、パスタやホットケーキも一緒に作った。内気で人見知りの自分を引っ張ってくれた。

落ち込むときは、心の中で話しかける

 震災の翌年、自宅を再建した丸森町に移った。中学2年の時、親の仕事を調べる授業があり、介護福祉士という職業を知った。

 中学3年生。「どんな道に進んだら、お母さんは喜ぶだろう」。同じ仕事を選ぼうと決意した。「生半可な気持ちではできない」と諭すケアマネジャーの父を説得。養成コースがある仙台市の私立高に通い、目標をかなえた。

 あの日から海が見られない。津波のニュースに今も呼吸が乱れる。それでいて、震災の記憶は曖昧になり、友人と話題にすることもなくなった。「日常が突然、崩れてしまうことを忘れてはいけない」。そう言い聞かせる。

 母には何と伝えようか。「残った家族でやっているよ。だから心配しないで」。口にしてみたものの、仕事は人間関係も含めてやっぱり大変だ。家族でけんかもする。落ち込み、愚痴をこぼしたい時もある。

 「しゃきっとしなさい。くよくよしないの」

 カラッとした明るい声が聞こえてくる。

 お母さんは、今も心の中にいる。 

(庄子晃市)

(河北新報 2021年1月14日公開)

 

友好紙・河北新報「東日本大震災10年特集」はこちら

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