3月12日 追悼 「生き残った者の役割」

河北新報連載「あの日、防災庁舎で」#07

 一夜明けた3月12日。宮城県南三陸町の防災対策庁舎で生き残った町職員は避難所運営など被災者対応に追われる。佐藤仁町長も午後に公務に復帰し、陣頭指揮を執った。

 「避難所に1万人近くいるみたいだ」。町総合体育館に設置した災害対策本部会議でまず報告があった。「備蓄も流された。1日3食、どうやって用意すればいいのか」。佐藤町長は衝撃を受けた。

3月12日   

 最初の本部会議は佐藤町長ら数人の職員と消防署員だけで始まった。津波で死亡・行方不明になった町役場職員は全体で36人。屋台骨を支える課長や中堅職員が多く、行政機能は窮地に陥っていた。

 多くの課題を次々に突き付けられた。「ご遺体の火葬はどうするのか。その前に流出した住民基本台帳を立ち上げないと何もできない…」。遠藤健治副町長は頭を抱えた。

月末   

 3月末、テニスコートにプレハブ仮設庁舎を設け、窓口業務を開始。紙切れ1枚ない状況からの再出発だった。さい証明などの交付を待つ長蛇の列が毎日でき、怒号が飛び交った。

 「生き残った自分たちがやらなきゃいけないという思いは日増しに強くなったが、『あぁ、あいつらがいればな…』と何度思ったことか」。遠藤副町長は当時を思い返す。長い時間を職場で過ごした職員は家族同然だった。

 防災庁舎で助かった若手もつらい日々を歩んできた。「同僚を失い、仕事ができないんじゃないかという精神状態に陥った時もある」。総務課の佐藤裕さんは帰宅途中の車で言葉にならない思いを叫んだ。企画課の阿部好伸さんは「何で自分は助かったんだろう」と自責の念にさいなまれた。

翌月   

 震災翌月、遠藤副町長が職員の遺族を弔問した。「元気な姿でお返しできずに申し訳ありません」。玄関先で頭を下げ続けた。「孫を返してけさい」と言われると、言葉が出なかった。町は職員も含め831人が犠牲になった。佐藤町長は9月の町全体の合同慰霊祭が終わった後で弔問に訪れた。

 役場内には亡くなった職員の遺族や親戚もいて、防災庁舎を口にするのは、はばかられた。佐藤町長も記者会見で尋ねられた時以外、ほとんど口にしなかった。あの建物で何があったのかは、ほとんど語られず、生き残った職員の記憶も薄れていった。

 一方、防災庁舎は震災直後にギラード豪首相が訪問するなど津波の猛威を語る建物として国内外に発信された。佐藤町長は当初、保存に理解を示していた。

 遺体安置所に通い、線香を上げた日々。「あいつ、どこにいんだべ」。行方不明遺体の写真台帳をめくって職員の姿を捜した。「この地獄を繰り返してはならない」。大津波が襲った事実が一目で分かるものを残すべきだと思った。

あの日から   

 遺族や町民の間で解体か保存かで2年半大きく揺れた。町は2013年9月、財政面での問題や解体を望む遺族に配慮し、解体方針を決めた。15年6月には一転、20年間県有化することが決まった。震災から4年余の歳月が過ぎていた。

 15年春に退職した遠藤副町長は今、震災の伝承活動に携わる。命を守る避難訓練につなげられていただろうかと自問する。「後ろめたい気持ちは今なおある。ただ、生き残った者の一つの役割なのかな」

 17年9月、新たな役場本庁舎が標高61メートルの高台に完成した。開庁の2カ月前、佐藤町長は犠牲となった町職員全員の名前を紙にしたため、追悼の思いをつづった。

 「おかげさんで新しい役場ができたぞ」

 封筒には「ささげる」と書いた。亡き仲間の顔を思い浮かべながら、正面玄関の定礎板の裏にあるステンレス製の箱にそっと納めた。

(肩書は当時)=7回続き完(吉田尚史、佐々木智也)

(河北新報 2021年3月1日)

 

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