博多ロック編<193>オリジナルの誕生

下宿で作曲した鮎川 拡大

下宿で作曲した鮎川

 「ほれっ」
 
 「サンハウス」の柴山俊之は鮎川誠の下宿を訪ね、紙切れを渡した。生まれたての「キング・スネーク・ブルース」の歌詞が書かれていた。無造作を装ったのは恥ずかしさを隠すためだった。

 「うん」

 受け取った鮎川もそれしか言わなかった。詞を読み、いいとか、悪いとは全く論評しなかった。ただ、内心では「本気だな」と詞にかける柴山の殺気めいたものを感じた。

 「サンハウス」は結成後、ロックの源流にあるブルースをとことん追求してきた。柴山の歌詞はそのブルースを根にしていた。「ほれっ」と「うん」ですべてが了解できた。

 鮎川はギターを弾きながら曲作りに入った。参考にした一つは高田渡のファーストアルバム「ごあいさつ」(1971年)だ。

 「高田さんの曲の基盤はブルースで、それを自分で消化して表現していた」

 もちろん、鮎川の引き出しにはあふれんばかりの多彩なブルース、ロックなどの曲のコードが詰まっていた。

 〈俺の身体は黒くて長い〉

 自分でフレーズを歌いながら曲を作っていく。同居していたシーナが横で聴いている。うなずいたり、首をかしげたり。

 〈夜になったらぬけだして〉

 忘れてはいけないのでカセットに吹き込む。

 「一気に作り上げた。1時間くらいでできあがったかな」

   ×   ×

 福岡市・須崎のロック喫茶「ぱわぁはうす」に集まった「サンハウス」のメンバーたち。鮎川は新曲のコード進行を説明した。

 「EからD、それからA、Gでいく」

 ドラム、ベースが入る。ギターだけの平板さを立体化していく作業だ。みるみる曲が生気を帯び、まるで生き物のように動き始めた。バンドマジックだ。鮎川はいつも思う。

 「これだからバンドは止められない」

 「サンハウス」の初のオリジナル作品が完成した。ただ、鮎川は「よしやったぞ」という雰囲気ではないことを察知した。

 「これで大丈夫かな? ?マークが三つくらいついていた」

 柴山は次々と詞を書いた。部屋には歌詞入りメモ紙が山をつくった。柴山の家に出入りしていた高校生バンド「田舎者」の山部善次郎はこっそりとそのメモ紙をポケットに入れたりした。

 1973年、福岡市の明治生命ホールで3時間単独の「サンハウスショウ」を開いた。2部構成で、1部はカバー曲、2部はオリジナル曲。?マークは三つ、二つ、一つと消え、自信に変わっていく。

 鮎川はメンバーの気持ちを代弁した。

 「オリジナルは自分の子どもようにかわいか」

 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2014/02/24付 西日本新聞夕刊=

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