博多ロック編<195>ギターの道一直線に

「ぱわぁはうす」で歌う津和野 拡大

「ぱわぁはうす」で歌う津和野

 ロックバンド「ブロークダウン・エンジン」のギター、ボーカルの津和野勝好は博多湾内の能古島の渡船上から輸入盤のシングルレコードを一枚一枚、円盤のように海へ投げた。200枚が1972年の夏の海に沈んだ。

 この夏に開かれた博多湾の「能古島ロックフェスティバル」。津和野のバンドも出演予定だった。「サンハウス」の演奏が午前零時ごろから始まった。津和野は「この後だ」と思っていたが、頭脳警察、はっぴいえんど、と続いた。時間が押しに押し、夜明けも近づく。観衆が眠り始めた。

 「こんなタイミングでやれるか。もう出ない」

 やるせない気持ちの向かった先がレコード投げだった。200枚はこのイベントの中のフリーマーケットに出品するために持参していた。

 博多ロックの第1世代といわれる「サンハウス」と同時代に活動していたのが「ブロークダウン・エンジン」だ。津和野は作詞、作曲も担当していた。ドラムは後に「サンハウス」に入る鬼平こと坂田紳一だ。

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 津和野は福岡県久留米市生まれ。父の転勤で北九州市・小倉などを経て、高校2年のときに福岡市の香椎高校に編入。このころからギターを弾いた。学生服のままダンスホールに入り、演奏していた鮎川誠たちのバンド「アタック」に「1曲、弾かせてくれ」と飛び入りしたこともあった。

 卒業後、同市のダンスホール「ハニー・ビー」のハコバンドに入り、自分のバンドを結成した。このホールでは「サンハウス」も演奏していたこともあって、メンバーと交流を深める。「サンハウス」の結成当初、臨時でベースを弾いてもいる。

 津和野はギター一直線の男だ。純子夫人は「食事とトイレ以外はギターを弾いていた」と言う。

 津和野はメジャーになるといった上昇志向のない、自己顕示欲もない武骨な男で、ひたすらギターを弾くことが純粋な歓(よろこ)びだった。
津和野のオリジナル曲には「貨物列車のブルース」「エンジン吹かせてぶっとばせ」などがあり、ロック喫茶「ぱわぁはうす」などでもライブを打った。「サンハウス」について「ライバル心などはなかった」と言う。ただ、柴山から「マコっちゃんが好きなんだろう」と皮肉られるほど鮎川のギターには一目置いていた。

 津和野のギターは福岡で初のギブソン社の「黒いレスポール」。それを鮎川に譲ったのは「ギタリストの心はギタリストだけが知る」とだけ言った。

 「ブロークダウン・エンジン」は1976年1月の同市・明治生命ホールでのコンサートを最後に第1期の活動を終える。

 「サンハウス」と共に「ぱわぁはうす」を拠点にして博多ロックの基盤をつくったバンドだった。

 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2014/03/10付 西日本新聞夕刊=

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