博多ロック編<196>二つのライブハウス

フォーク喫茶「照和」=昭和45年12月 拡大

フォーク喫茶「照和」=昭和45年12月

 「博多はロックで、福岡はフォークだ」
 
 1970年の福岡市の音楽シーンはこのように表現される。「博多ロック」と「福岡フォーク」。那珂川を挟んで二つの音楽圏が形成されていた。

 「博多ロック」は同市博多区・中洲のダンスホールで育ち、71年にオープンした中洲と接した須崎のロック喫茶「ぱわぁはうす」を拠点にした。

 これに対して「福岡フォーク」は70年にスタートした天神のフォーク喫茶「照和」を拠点にしていた。チューリップ、海援隊、甲斐バンド、長渕剛などを輩出したことはよく知られている。

 フォークギターの弾き語り。一方はエレキギターのバンド。演奏スタイルの違いもさることながら言ってしまえば思想が、路線が違った。

 「サンハウス」の鮎川誠はフォークについて「違うね」としか思っていなかった。それは「照和」サイドから言っても「違うね」と思っていただろう。ライバル心や敵対心などはさほどなく、互いにあまり意識していなかった。だからいがみあうこともなかった。那珂川を挟んで棲(す)み分けていた。

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 まったく交流がなかったわけではない。「ぱわぁはうす」を軸に活動していた「ブロークダウン・エンジン」の津和野勝好は言う。

 「空いている午前中に『照和』で練習をさせてもらった。でも、ここでステージに立つことを思わなかった」

 「サンハウス」は「照和」でも2回、演奏したことがある。柴山俊之は言う。

 「『照和』が人気ということもあってどんなもんか見に行って、半ば強引に演奏させてもらった。まあ、ねたみ根性みたいなものもあったかもしれない」

 当時、福岡市にフォークバンドは200~300あり、ロックの方は数バンドにすぎなかった。ロックは少数派だった。少数派だからこそ「おれたちがやらなくては」といった若い背伸びした使命感があったことも事実だ。

 「サンハウス」は海援隊と「ライト・オン」と銘打った共同コンサートを、福岡県久留米市の石橋文化センターと福岡市の明治生命ホールでしたこともあった。鮎川は言う。

 「仲介者がいて一緒にやった。もちろん、それぞれが独自に演奏したが、2、3曲は合同で歌った」

 「サンハウス」は75年、ファーストアルバム「有頂天」をリリースしたとき、「正式」に「照和」のステージに立っている。

 那珂川の橋を渡って逆に福岡の「照和」から博多の「ぱわぁはうす」に向か
うバンドもいた。「照和」でローリング・ストーンズばかりを演奏していた「田舎者」だ。

 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2014/03/17付 西日本新聞夕刊=

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