スポーツ本来の意味を解体 東京五輪と「祝賀資本主義」【中島岳志さん寄稿】

 東京五輪が終わった。祭りの後には、大きな負債が残され、国民は税金の支払いによって、そのツケを払っていかなければならない。一方で、人流抑制と逆行する形で開催されたことで、コロナの拡大に歯止めが利かなくなった。お祭り騒ぎの代償は、あまりにも大きい。

 元オリンピック選手のジュールズ・ボイコフは、『オリンピック秘史 120年の覇権と利権』(2018年、早川書房)や『オリンピック 反対する側の論理』(2021年、作品社)など一連の著作で、「祝賀資本主義」(セレブレーション・キャピタリズム)という概念を提示する。これは祝賀的なイベントによって公的な助成が大々的に行われ、一部の民間企業が利益を得るという仕組みを意味する。

 ボイコフはナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』(2011年、岩波書店)から大きなヒントを得ている。「惨事便乗型資本主義」とは、災害や戦争などが起きた時に、「惨事」に便乗する形で既存の制度が解体され、新自由主義的な政策が実行されることである。ボイコフは「祝賀資本主義」もその派生形態であると論じる。

 五輪においては、「祝賀」という「例外状態」に便乗し、通常ではありえないような決定プロセスで膨大な公的資金が投入される。国民も「祝賀」ムードに熱狂し、一流選手の全力プレイに感動することで、厳しい追及を放棄する。そして、大きなツケを税の支払いによって負担することになる。さらに、オリンピック成功のためにセキュリティーが強化され、関連産業が成長する。

 経済思想家の斎藤幸平は「東京五輪失敗の根本原因はコロナではない」(『AERAdot』8月8日配信)の中で、ボイコフの議論を援用し、東京五輪はまさに「祝賀資本主義」だと論じる。国民は膨大な負担を強いられながら、コロナ感染爆発で自宅待機を強いられる一方で、IOCの幹部や一部企業の特権層が利益を独占する。

 このような勝ち組になることを目的とする資本主義のあり方は、スポーツを勝利至上主義へと導く。コロナに感染したサッカー南アフリカ代表に対して、自分たちには「得でしかない」と発言した日本人選手がいたが、このようなスポーツのあり方は「勝てば何をしてもいいという資本主義の競争型社会と相性がいい」。

 スポーツは本来、「対話、協調性、他者の尊重などを学び、発展させていく機会を与えてくれる真剣な『遊び』」であり、共有財産としての「コモン」である。この価値を破壊しているのが「祝賀資本主義」に乗っ取られた五輪のあり方である。

 ラグビー日本代表として活躍し、現在はスポーツ教育学者として活動する平尾剛は、五輪期間中の7月31日のツイートで「人生のほとんどをスポーツに費やしてきた過去が無意味に思えるほどやるせない」と吐露している。平尾にとって、スポーツに取り組むことは、人間形成そのものであり、勝利至上主義とは根本的に相容(あいい)れない。にもかかわらず、五輪はスポーツの持つ意味を解体し、「祝賀資本主義」に乗っ取られている。この状況に平尾は異議申し立てを行い、「五輪そのものの廃止」を訴える。

 平尾は「アスリートは気持ちを言葉にすべき」(『AERAdot』8月15日配信)の中で、「『スポーツウォッシング』(政府や権力者などが自分たちに不都合なことをスポーツの喧騒(けんそう)で洗い流すこと)」に加担するメディアに「憤りを感じます」と述べる。そして、スポーツ関係者から五輪のあり方へ異論の声が上がらないことに警告を発する。

 アスリートたちは、パフォーマンスが仕事であって、それ以外は「余計なこと」だという価値観の中で育っている。そのため、意見を述べることに慣れていない。しかも、スポーツ界そのものが、主張することを良しとしない空気を醸成している。これを変えていかなければならないと訴える。

 現在の五輪に問題があることは明白である。本来のスポーツの意義を破損させる祝祭に、何の意味があるのか。東京五輪の負の遺産をしっかりと分析し、代替案を提示しなければならない。その意味で、東京五輪はまだ終わっていない。

(なかじま・たけし=東京工業大教授)

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