博多ロック編<199>ブルースと絵画

ライブの模様を描いた山善の絵 拡大

ライブの模様を描いた山善の絵

 ブルースシンガーの山善こと山部善次郎は福岡市・千代の紙卸問屋「紙ヤマベ」の長男だ。家業とはかけ離れたロックの世界に明け暮れていた。家業に戻ろうとしたのは24歳のころだ。

 徳間音楽からのアルバムリリースも自ら断った。同市・中洲のバーでの弾き語りの仕事にも疲れ果てた。

 「身も心もボロボロになった」

 実家に夕飯を食べに帰ると父親が言った。

 「24、25歳にもなって。もうそろそろ、ケジメをつけたらどうか」

 「…わかった」

 「じゃ、明日からここに行け」

 四国の愛媛県・松山の製紙会社「オリエンタル製紙」の見習いとして九州を離れた。音楽とも別離した。1年間の修業を終え、博多に帰ってからも家業を手伝った。5年が過ぎた。

 30歳を前にした山善は車でトイレットペーパーを配送していた。ラジオから同世代の博多のロックバンド「アクシデンツ」の曲「雨のメインストリート」が流れてきた。

 「もうこんなことはやってられない」

 再び音楽の、ロックの現場に戻った。

   ×    ×

 山善が電線に触れる事故に遇ったのは中学2年生、14歳のときだ。高いところが苦手だった。近づく九重キャンプに備えて高所恐怖症を克服するためやいたずら心もあって倉庫近くの電柱に登った。電線の6600ボルトの電流が両手から入り、顔面に抜けた。10メートル下に落ちた。

 九死に一生を得るが、顔の傷は深かった。以来、数年間は形成外科などでの入退院を繰り返し、自分の皮膚を移植するなど辛苦の日々だった。テレビで紹介された形成外科医があれば両親がすぐに連絡を取った。

 「入院のときの慰めになったのが絵でした」

 スケッチブックにクロッキーした。スケッチブックが何冊にもなった。

 「このときデッサン力が身についた」

 小学校時代、図工と体育は「5」で、近くの公民館で油絵を習った。高校時代までさまざま絵画コンクールで賞を取った。

 山善が39歳のとき、絵心のある久里子夫人が「本格的に絵を描いたらどうか」と背中を押した。

 以来、個展は10回を超えた。画家でもある。

 「ロックのリズムが絵画にも生きている」

 博多ロックの第1世代の山善は福岡の地に踏みとどまりながら今も最前線で戦っている。超えてきたいくつかの失意、絶望は現在の「山善ブルース」に深さと渋さをもたらしている。男・山善は健在だ。

 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2014/04/07付 西日本新聞夕刊=

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