【華麗なる記憶 近衛家展@九博】<上>藤原道長 権力者は大ざっぱ?

世界記憶遺産に登録された藤原道長の直筆日記「御堂関白記」。寛弘6年下巻には、長女・彰子が皇子・敦良を出産したことなどが記されている(国宝、1009年、陽明文庫所蔵)=寛弘6年下巻の展示期間は4月15日~5月11日 拡大

世界記憶遺産に登録された藤原道長の直筆日記「御堂関白記」。寛弘6年下巻には、長女・彰子が皇子・敦良を出産したことなどが記されている(国宝、1009年、陽明文庫所蔵)=寛弘6年下巻の展示期間は4月15日~5月11日

平安京を1000分の1サイズで復元した模型(京都市歴史資料館所蔵)。手前に藤原道長が建立した法成寺もあった=京都市中京区の市平安京創生館

 近衛家は、天皇を補佐する摂政や関白を担った摂関家(五摂家)の筆頭。大化の改新で活躍した藤原鎌足(614~669)を始祖とする藤原氏の嫡流である。さかのぼれば藤原道長や近衛文麿などの政治家や文化人を輩出し、その名を歴史に刻んできた。「華麗なる記憶」をたどって、ゆかりの地を歩いた。

 彼は字を書き間違えると、誤字の上に正しい字を重ねて書いてしまう。真っ黒で読めやしない。大ざっぱ、よく言えば、おおらかな性格だったのだろう。

 筆の主は藤原道長(966~1027)。平安時代、娘3人を歴代天皇の中宮(后(きさき))に立てて「一家三后」を成し遂げ、4人目を親王妃とした貴族である。左大臣や摂政、太政大臣を歴任し、摂関政治の最盛期を謳歌(おうか)した。国宝「御堂関白記(みどうかんぱくき)」は道長の自筆日記。知れば知るほど、時の権力者の内面が見えてくる。

 春の京都を歩いた。

 世界遺産の仁和寺(京都市右京区)の近くに、御堂関白記を所蔵する公益財団法人陽明文庫がある。現存する直筆本は14巻。33歳から56歳までの出来事が記されている。うち1巻が展示室にあった。直筆本は漢文体なので、私のような門外漢には読めない。それでも想像は膨らんでいく。

 千年前、道長はこの日記の前に座り、宮中の儀式や娘の立后、皇子の誕生などを記録した。紙に触れただろう。吐息がかかったかもしれない。直筆本の前に立つと、時代を超えて道長と対峙(たいじ)した気になる。「感情を込めて書いたり、そうでなかったり。記述によって違いがあり、日記そのものに歴史の臨場感がある」。名和修文庫長は言う。

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 道長は、摂政・藤原兼家の五男。権力にはほど遠い存在だったが、兄たちの死去に伴い30歳で藤原氏の長となり政権の座に就いた。実務経験を十分積まなかったためか、当時の教養である漢文が苦手だったらしい。

 国際日本文化研究センター(同市西京区)に、御堂関白記を現代語訳した倉本一宏教授(日本古代史)を訪ねた。「20代は自由闊達(かったつ)に生きたのだろう。初期の漢文は下手だが、次第にうまくなっている」と倉本教授は語る。道長は日記を代筆させなかった。努力家の一面が垣間見える。

 当時の貴族たちは日記に日々の儀式や政務の詳細を記し、情報として後世に受け継いだ。しかし、道長は日記を誰かに見せる(見られる)ことを想定していなかった。御堂関白記は異色の日記である。寛弘7(1010)年上巻の〓(〓は「ころもへん」に「票」)(ひょう)紙に、こう記されている。

 「件(くだん)の記等、披露すべきに非(あら)ず。早く破却すべき者なり」

 道長は、漢文の不得手を他人に知られたくなかったのだろうか。

 日記は数日分がまとめて書かれた形跡がある。外泊する際は日記を持参できない。書くのが面倒な日もあるだろう。そのせいか道長は時々、間違った日付の箇所に記述してしまう。

 日記には、その日の年中行事や吉凶といった「暦注(れきちゅう)」があらかじめ記されている。「毎日、暦注を確認しなければ仕事ができないはずなのに」。倉本教授は首をかしげる。

 めんどくさがり、豪快、大胆…。道長を形容する言葉が頭に浮かぶ。絶対的な権力を手に入れ、怖いイメージさえある道長だが、実は憎めないキャラクターだったのかもしれない。

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 道長が暮らした平安京は、どんな都だったのか。京都市平安京創生館(中京区)に足を運んだ。平安京は平安宮と朱雀(すざく)大路を中心にとした東西4・5キロ、南北5・2キロの都城。千分の1の復元模型が同館にある。

 道長の邸宅「土御門第(つちみかどてい)」は北東部、現在の京都御苑(上京区)の一画にあった。「京都の地形は北東部が高く、一帯は鴨川に近くてきれいな水が湧き出るため一等地だった」。同市考古資料館の元館長、長宗繁一さんが教えてくれた。

 「この世をば 我(わ)が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」

 道長が有名な和歌を詠んだ場所も土御門第と伝わる。現存していないが、模型には寝殿造りの土御門第が復元されていた。

 道長は「一家三后」を実現した後、1019年に出家した。当時、終末を説く末法思想が広がっていた。御堂関白記からは、道長が、極楽浄土を願う浄土信仰に傾倒していく様子が読み取れる。

 道長は土御門第のそばに法成寺(ほうじょうじ)を建てた。寺内には金堂や薬師堂、五重塔などが立ち並び、「御堂」とも称された。鴨川から臨む景観は、宇治川から見える平等院(京都府宇治市)のモデルと言われる。平等院鳳凰(ほうおう)堂は地上の極楽浄土とあがめられたという。道長は関白にはならなかったが、後世、崇敬の念を込めて「御堂関白」と呼ばれた。自筆日記の名の由来である。

 法成寺跡(上京区)を訪ねた。道長はこの寺の阿弥陀堂で亡くなった。享年62歳。その後、寺は度重なる火災や地震で消失し、現在は石碑が立っている。

 日本史上、比類ない権力を手に入れ、藤原氏の永久政権を夢見た道長。晩年は病に苦しんだという。彼の栄華を物語る建物は残っていない。石碑のそばで、桜が散り始めていた。

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 ▼華麗なる宮廷文化 近衛家の国宝 京都・陽明文庫展 6月8日まで、福岡県太宰府市の九州国立博物館。国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録された藤原道長の直筆日記「御堂関白記」など、京都の公益財団法人陽明文庫が所蔵する近衛家伝来の品々を中心に114件(国宝18件、重要文化財34件、重要美術品13件)を展示する。期間中一部入れ替えがある。一般1500円、高大生1000円、小中生600円。月曜休館(5月5日は開館)。

 NTTハローダイヤル=050(5542)8600。


=2014/04/17付 西日本新聞朝刊=

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