【華麗なる記憶 近衛家展@九博】<中>近衛信尹 薩摩・坊津に流され

近衛信尹筆「和歌六義屏風」の右隻 拡大

近衛信尹筆「和歌六義屏風」の右隻

左隻。屏風にじかに和歌を揮ごうし、斬新な発想を見せた=16~17世紀、いずれも陽明文庫所蔵 近衛信尹が選んだとされる坊津八景の一つの網代浦。二つの奇岩が並んだ「双剣石」が見える=鹿児島県南さつま市 「硯川」と呼ばれる湧き水。近衛信尹がこの水を硯水に使ったとの説がある=鹿児島県南さつま市

 は~るばるきたぜ坊津へ~ ハンドルを握りながら口ずさんだ。博多から新幹線と車を乗り継いで約3時間半。鹿児島県南さつま市坊津町はリアス式海岸が風光明媚(めいび)な港町である。

 博多津(福岡)、安濃津(三重)と並び「日本三津」と呼ばれた坊津。420年前、京都からこの地に流された男がいる。後に関白となる近衛信尹(のぶただ)(1565~1614)。かなり落ち込んでいたらしい。

 それもそのはず。当時、豊臣秀吉、おいの秀次が相次いで関白を務めた。関白は代々、藤原氏からつながる摂関家が担ってきた要職。信尹は不満を抱いて左大臣を辞し、肥前・名護屋へ向かう。朝鮮に渡り、文禄の役に加わろうとした。後陽成天皇にとがめられ、1594年、30歳で薩摩・坊津に配流された。

 なぜ、坊津なのか。薩摩、大隅、日向の3国は「島津荘」という荘園だった。11世紀、藤原道長の長男で関白の頼通が寄進を受けたのが起源という。12世紀、源頼朝が御家人の惟宗(これむね)忠久を島津荘の管理者に任命。忠久は島津姓を名乗り、島津家初代となった。近衛家は藤原氏の嫡流。こうした背景が影響したようだ。

 「信尹に厳しく対処するなら、近衛家と無縁の地に配流することもできたはずだ」。鹿児島大学の金井静香准教授(日本中世史)は指摘する。豊臣家に関白を奪われた信尹。九州平定で秀吉に屈した島津家。信尹が薩摩で厚遇を受けたのは、長年の縁だけでなく、相通じる感情があったからだと思えてならない。

 だが、坊津の先は離島しかない。約50キロ南に硫黄島がある。平安時代、平家打倒を企てたとして僧侶・俊寛が流されたという説がある島。「空気が澄んだ晴れの日は硫黄島が見えることがある」。地元の人が教えてくれた。流刑地の一歩手前-。信尹がショックを受けたのも無理はない。

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 坊津にはいくつもの浦がある。その一つ、網代(あじろ)浦を坊津歴史資料センター「輝津(きしん)館」から臨む。「双剣石」が見える。天に向かって立つ奇岩は剣のようだ。

 「磯ぎはの 暗きあじろの 海面も 夕日の跡に 照らす篝火(かがりび)」

 網代夕照。信尹が選び、和歌を詠んだと伝わる「坊津八景」の一つ。江戸時代の浮世絵師、歌川広重が描いたことでも知られる景勝地である。

 信尹は坊津で1年4カ月を過ごした。旅日記「三藐院(さんみゃくいん)記」に日々の出来事が記されている。網代浦で船遊びをして、カツオが網にかかるのを見た。坊津は異国への玄関口。坊津を訪れた唐人の作詩を見物し、唐人から氷砂糖をもらった。次第に坊津での暮らしを楽しむようになっていった。

 信尹は天神信仰を深めていた。坊津の古寺・一乗院で天神の絵像を参拝したこともある。大宰府に左遷され、失意のうちに没した菅原道真と自分自身を重ねたのだろうか。「連歌の神様」とされる道真に対する崇敬の念もあっただろう。

 1595年、転機が訪れる。秀吉と不仲になった秀次が失脚。信尹は坊津から鹿児島に移され、翌年、赦免されて帰京した。その9年後、関白になる。

 信尹は島津家の恩を忘れなかった。それを裏付ける信尹の手紙が太宰府天満宮(福岡県太宰府市)に残る。関ケ原の戦いの後、豊前から筑前へ移った黒田如水(官兵衛)にあてた書状。当時、関ケ原で西軍についた島津家は存亡の機に立っていた。「徳川家康が島津家のことを穏便に対処するようとりなしてくれと、信尹は官兵衛に頼んだ」。味酒安則禰宜(ねぎ)は話す。信尹は義を重んじる男だった。

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 信尹は文化人でもあった。「近衛流」と呼ばれる独特な書風を確立した能書家として知られ、「寛永の三筆」に数えられる。

 代表作の一つが「和歌六義屏風(りくぎびょうぶ)」。坊津から帰京後に書いたとみられる。六曲一双の屏風に直接、和歌を力強く大書した。当時では独創的な書とされ、日本書道史の優品の一つだ。

 「信尹の筆使いは爽快なリズム感があり、ダイナミックでもある。室町時代の書は型を尊重するあまり、筆致に重たい感じがあるとされる。信尹はそこに新風を吹き込んだ」。九州国立博物館(太宰府市)の丸山猶計(なおかず)主任研究員(日本書道史)は語る。和歌六義屏風はその象徴と言える。

 信尹は配流という挫折を味わった。坊津では和歌や書画に長じるに十分な時間があった。自然に接し、唐人と交流するなど、都では得難い経験も信尹の感性を育てただろう。革新的な書が生まれた遠因に、坊津での日々があるはずだ。

 信尹が坊津で暮らした屋敷跡にフジが咲く。信尹が手植えしたと伝わり、「近衛フジ」と呼ばれる。一乗院跡の近くには、水が湧き出る「硯(すずり)川」がある。信尹が硯の水に使ったことが名前の由来という説がある。「坊津八景」もしかり。

 坊津滞在はわずか1年4カ月だったが、信尹は和歌や書画を通じてこの地に宮廷文化を伝えた。坊津の人々と深く交流した。町の至る所で見かけた信尹の「足跡」がそれを物語っている。

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 ▼華麗なる宮廷文化 近衛家の国宝 京都・陽明文庫展 6月8日まで、福岡県太宰府市の九州国立博物館。国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録された藤原道長の直筆日記「御堂関白記」など、京都の公益財団法人陽明文庫が所蔵する近衛家伝来の品々を中心に114件(国宝18件、重要文化財34件、重要美術品13件)を展示する。期間中一部入れ替えがある。一般1500円、高大生1000円、小中生600円。月曜休館(5月5日は開館)。

 NTTハローダイヤル=050(5542)8600。


=2014/04/24付 西日本新聞朝刊=

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