博多ロック編<204>「サンハウス」の伴走者

「サンハウス」とファンとのバスハイク(1976年、一番手前が大神) 拡大

「サンハウス」とファンとのバスハイク(1976年、一番手前が大神)

 福岡市の大神洋(63)が『菊の花道』(書肆侃侃房刊)を出版したのは2005年である。「サンハウス」の菊こと柴山俊之に捧げたオマージュだ。

 大神は1970年前後から柴山のロックの歩みをいつもそばで見続けてきた。現在も変わらない。柴山のライブが福岡であれば陰日なたとなって東奔西走する。大神は笑いながら言った。

 「柴山さんを社長とするなら私は福岡支店長ですね」

 柴山と出会ったのはジミ・ヘンドリックスが亡くなった1970年である。大学時代、同市・天神のジャズ喫茶「コンボ」にも顔を出していた。マスターの有田平八郎が言った。

 「ロックを聴きたいなら日曜日の昼間だけ自由にかけてもいいよ」

 大神は「大音響でロックが聴ける」と半ば日曜だけの臨時アルバイトとしてロックをかけるようになった。自分の好きなレコードを持参した。「コンボ」には柴山もよく来ていた。大神はダンスホールなどで歌う柴山を見たこともあった。

 大神は1970年のある日、「コンボ」でジミ・ヘンドリックスの最新の直輸入盤をかけた。柴山は「もう、この盤がここにあるのか」と大神に話し掛けた。それがきっかけだった。

 ×   ×

 小学生のころから洋楽が好きだった大神は「コンボ」と同じく足を運んだ場所は福岡市の別府橋近くにあったロック喫茶「マット」だった。この店はキックボクシングのジムを改装したもので、西南学院大学の劇団「無頓着」のメンバーが運営していた。2年弱で閉店するが、同市・須崎のロック喫茶「ぱわぁはうす」より2、3カ月早いオープンだった。

 「『ぱわぁはうす』の田原(裕介)さんが『ロック喫茶を始めるのでポスターを張らせてください』と来たことを覚えています」

 大神はその後、「サンハウス」の拠点になった「ぱわぁはうす」にも出入りすることになる。

 「日本のロックなんて」と少し冷ややかな目で見ていた。ところが「サンハウス」の演奏を聴いて「すごい」と見方が変わった。「コンボ」での柴山との出会いとその後の濃密な交流から「菊の花道」は生まれた。

 大神は20年前から「サンハウス」の年譜を含め、資料を収集しながら記録している。

 「いずれ裏話も含めてもっと書いてみたい」

 大神は博多ロックの貴重な記録者であり、伴走者だ。

 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2014/05/26付 西日本新聞夕刊=

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