博多ロック編<205>70年代を駆け抜ける

博多ロックの基盤をつくったサンハウス=1974年、「ぱわぁはうす」で 拡大

博多ロックの基盤をつくったサンハウス=1974年、「ぱわぁはうす」で

 1978年は福岡の音楽史にとって節目の年である。博多ロックの拠点になった福岡市・須崎のロック喫茶「ぱわぁはうす」が店を閉じた。「サンハウス」も解散した。また、同市・天神にあったフォーク喫茶「照和」も歩調を合わせるかのように同時期に第1期活動を終えた。

 現在、ブランドになっている「音楽都市・福岡」はこの70年代のロック、フォーク運動によってその強固な基盤が形成されたといえる。

 福岡の戦後文化運動の中で先行したのは前衛美術集団「九州派」の活動だ。反権力、反東京などを旗印に50年代から60年代にかけて精力的に活動した。

 「サンハウス」を下支えしたイベント会社「夢本舗」の北島匡などは終焉(しゅうえん)時代の「九州派」のメンバーたちと交流していた。小さな水路ではあるが、「九州派」の熱気はロック運動の中に流れ込んでもいた。

 「サンハウス」はなぜ解散したか。一言で言うのは難しい。解散時、結成メンバーのうち残っていたのは柴山俊之と鮎川誠だけだった。すでに結成のキーマンだった篠山哲雄も離れていた。運動というのはスタートした時点から解体を内在しているともいえる。

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 柴山は「先が見えなくなっていた」と言う。これは音楽だけのことではない。「生活のこともあった」。芸術と生活の相克。これはどのジャンルにも共通するアーティストの苦悩だ。特に30歳を前にして生活が重くのしかかってきたことも事実だ。

 また、ロックという音楽がフォークなどのニューミュージックにのみ込まれて当初の熱気、エネルギーが薄れ始めた時代状況もあった。さらには博多という地域での活動の限界性があったことも確かだ。複合的な要因から柴山は鮎川に「おれ、やめる」と切り出したのだ。

 こうした要因を逆から見れば、「サンハウス」の特異性も見えてくる。GS(グループサウンズ)を含めロックは「アイドル化」していく。ロックの源流を求めて武骨にブルースを追求した「サンハウス」はある意味、ロック本流の旗を振り続けた。それは中央資本から離れた場所=博多で活動していたからでもある。そして何よりも「サンハウス」の功績はブリティッシュロックの「タテ乗りビート」の上に日本語ロックのフォーマットを作ったことだ。これらによって「サンハウス伝説」ができあがる。

 1970年代を駆け抜けた「サンハウス」。博多ロックは80年代には「サンハウス」の後ろ姿を見ていたモッズ、ロッカーズなど第2世代に引き継がれることになる。

 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2014/06/02付 西日本新聞夕刊=

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