なぜ前回参院選で巨額買収が起きたのか? 安倍氏の遺恨と「刺客」

 2019年7月の前回参院選。自民党本部は同年3月13日、定数2の広島選挙区で6期目を目指す溝手顕正元国家公安委員長に加え、河井克行衆院議員(広島3区)の妻案里氏も擁立すると発表した。それから約半月後の3月29日。克行氏はある県議の事務所を訪ねた。県議は留守だったが、県議の後援会幹部で克行氏の後援会の支部役員でもある男性がいた。

 ▽「取っとけや」と30万円

 「ちょっと、こっち来いや」。克行氏は、男性を事務所の壁際に呼び「これを」と言って、現金30万円が入った封筒をジャケットのポケットに差し込んだ。男性は「これ、いけんよ」と封筒を手に取り、克行氏の手に握らせて返したが、克行氏は「まあ、ええけ、ええけ。いろいろかかるじゃろ。取っとけや」と言いながら、再び封筒を男性のジャケットのポケットに押し込んだ。

 やむなく男性は封筒を自宅で保管し、同年5月上旬、克行氏と会った際に「これ、もらうわけには、いかんけえ」と封筒を差し出したが、克行氏は「ええ、ええ、ええわいの。いったん出したものは引っ込めるわけにはいかんよのお、取っとけや」などと言って受け取らなかった。

 その後、克行氏は男性に「案里の選挙運動を手伝ってくれる人はいないだろうか」と言って、男性と親交がある女性の名前を挙げた。男性はその女性に電話をかけ、克行氏と女性の面会をセットした。また克行氏は男性の自宅に案里氏のポスターと名刺を持参し、ポスター貼りと名刺配りを頼んだ。

 このようにして克行氏が選挙運動を巡り買収したのは、同年3月下旬から7月21日の投開票日を挟んで8月1日まで、広島県議と県内の自治体首長・議員、元国会議員秘書、克行氏自身や県議の後援会幹部ら100人。現金の授受は計128回に及び、総額は約2870万円に上った。うち4人に対する4回は、案里氏も共謀したとして、東京地裁は公選法違反の罪で、克行氏に懲役3年の実刑などを、案里氏には懲役1年4月、執行猶予5年を宣告、地裁判決は確定している。2人はともに議員を辞職し、案里氏は有罪確定で当選そのものが無効となった。

 ▽安倍氏の遺恨「溝手氏を落とそうと」

 この巨額買収事件はなぜ起きたのか。自民党は第2次橋本政権で大敗した1998年の参院選を最後に、広島選挙区での複数候補擁立は見送り、与野党1議席ずつの無風選挙区となっていた。それが急転したのは「安倍晋三首相(当時)の意向を受けた党本部が溝手氏を落とそうとしているから」と地元ではささやかれた。

 溝手氏は第1次安倍政権で国家公安委員長を務めながら、自民党が2007年7月の参院選で大敗すると、安倍氏の責任に言及したり、民主党政権時代には、安倍氏を「過去の人だ」と評したりした。首相に返り咲いた安倍氏にとって“遺恨の相手”だったからだ。

 一方の克行氏は、菅義偉官房長官を慕う無派閥議員らでつくるグループ「向日葵(ひまわり)会」の世話人。安倍氏とも近く、首相補佐官に続いて、案里氏の擁立当時は、党総裁(安倍首相)外交特別補佐というポストに就いていた。案里氏は溝手氏に対する「刺客」であり、党広島県連会長の宮沢洋一参院議員は公然と「溝手さんいじめだ」と批判した。県連は溝手氏だけを支援すると決めた。

 ▽党本部のてこ入れ

 これに対し、案里氏は立候補の前まで広島県議を4期務めていたとはいえ、その地盤は県議の選挙区(広島市安佐南区)と克行氏の選挙区の衆院広島3区(広島市安佐北区・安佐南区、安芸高田市、安芸太田町、北広島町)と県西部に限られている。広島選挙区は14市、9町全域に及び、県連所属の県議、市議、町議のほとんどから支援も望めず、当初、案里氏の当選は厳しいとみられていた。

 党本部はてこ入れに出る。選挙資金として案里氏に溝手氏の10倍の1億5千万円を提供。120万を超える広島県内の全世帯には、案里氏を特集した党機関紙「自由民主」の号外が配布され、案里氏のメッセージが1分間流れる電話もオートコールで発信された。安倍氏は自分の秘書を案里陣営に入れ、自身も選挙期間中、広島市に入り「広島から女性の国会議員を」とアピールした。菅氏や自民党の二階俊博幹事長も案里氏の応援に駆けつけた。

 案里氏は二階氏のアドバイスで、聴衆がいようといまいと、のぼりを1本持って1人で連日街頭演説を繰り返し、さらに事件となった約2870万円の買収も奏功してか、開票結果は、約32万9千票を得た立憲民主党の森本真治氏と、約29万5千票の案里氏が当選し、約27万票にとどまった溝手氏は落選した。

 ▽岸田氏も、まずは案里側へ

 安倍氏は参院選後の19年9月の内閣改造で、論功行賞のように、克行氏を法相に登用した。しかし、翌10月31日、案里氏の選挙運動で車上運動員に法定上限の2倍に当たる3万円の報酬を支払っていたと報じる週刊文春が発売されると、克行氏は法相を辞任した。東京地検特捜部は、この車上運動員への違法報酬を端緒に捜査を進め、河井夫妻による巨額の買収を突き止める。

 こうしてみると、安倍氏の遺恨から案里氏が「刺客」として擁立され、県連の協力も得られない厳しい選挙情勢の下、河井夫妻は巨額の買収に及んだと言えなくもない。実際に案里氏は、劣勢をはね返して当選した。

 さて広島は、宏池会を創設した元首相の池田勇人(没後30年で敬称略)、宏池会から首相となった宮沢喜一氏(故人)の地元であり、宏池会出身の岸田文雄首相は衆院広島1区の選出だ。溝手氏も宏池会に所属していたが、問題の19年参院選で、当時政調会長の岸田氏は安倍氏が広島入りした際、まず一緒に案里氏の演説会場に赴き「河井案里をよろしくお願いします」と訴えた。

 安倍氏は気をよくしてか、池田勇人と宮沢喜一氏の名前を挙げ「令和の時代はここにいる岸田さん(が首相)だ」と持ち上げたが、溝手氏陣営の県議は「こっちの船長(岸田氏)がこれじゃあ、勝負にならん。もう腰砕けじゃ」と嘆いたという。

 今回の参院選広島選挙区は、自民党が当選2回の宮沢洋一氏1人を擁立、野党は立憲民主党、国民民主党、社民党が推薦する無所属新人の三上絵里氏らが立候補している。また今回は、全国を見渡しても、誰かの遺恨による「刺客」の候補者はいないようだ。

(共同通信編集委員兼論説委員=竹田昌弘、克行氏に対する東京地裁判決と、中国新聞「決別金権政治」取材班著『ばらまき―河井夫妻大規模買収事件全記録』を参照)

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