ある琉球人の生涯(下) 日本の敗戦 石垣島へ引き揚げることなく

石垣朝清さんの生家跡付近に、かつての石垣を思わせる石塊が並んでいるのを見つけた大田静男さん
石垣朝清さんの生家跡付近に、かつての石垣を思わせる石塊が並んでいるのを見つけた大田静男さん
写真を見る

 1945年8月。日本の敗戦で、日本人がピラミッドの頂点にいた台湾社会は一変した。

 「3等国民」と虐げられていた台湾人からは、「1等国民」だった日本人を「4等国民」とののしる声が出た。ただ日本人とは区別されて差別を受けていた沖縄県人には仲間意識からか、「自分たちと兄弟の関係」と受け止める台湾人も少なくなかった。

 12月になると、日本人の本土への引き揚げが始まった。台湾の沖縄出身者でつくる沖縄同郷会連合会などは、沖縄への引き揚げ準備を進めた。ところが連合会などは、本土に転籍した沖縄人を排除した。「本籍地(転籍地)に引き揚げなさい」。石垣島に生まれ、当時台湾で暮らしていた宮崎禎治さん(97)=那覇市=は転籍したために冷遇された人を覚えている。

 沖縄から長崎に転籍していた石垣朝清さんも沖縄に引き揚げることはなく、46年4月3日、日本人としての引き揚げ証明書を入手した。荷物は妻、三男と手分けしリュックとこうりを三つずつ、布団包二つだった。

 □ □

 それから9日後、外地から引き揚げてきた人でごった返す和歌山県の田辺港に朝清さん一家の姿はあった。米軍はノミやシラミの除去のためDDTを浴びせた。朝清さんが保存していた引き揚げ証明書には、いくつもの印鑑や書き込みが残る。引き揚げ後に支給された食料は「外食券六枚、乾パン六袋、にぎり飯一食分」と書かれていた。

 朝清さんは56歳だった。一家は本土の親族を頼り、大阪市、長崎県佐世保市と移った。引き揚げから約7カ月後に妻は亡くなった。

 朝清さんの恩給証書によると、51年に「宮島姓」に改姓した。それ以前の資料でも一部で宮島姓を使っているが、詳しい経緯は分からない。その頃、朝清さんの次男と結婚し、朝清さんとも同居していた寿美子さん(89)=長崎市=は「朝清さんが宮島さんと形だけの養子縁組をした。宮島さんは私は会ったこともない」と振り返った。

 改姓理由は、沖縄出身だと分からなくするためだったかもしれない。戦前戦後、仲村渠(なかんだかり)や伊良皆といった沖縄独特の姓を変えたり、読み方を変えたりする沖縄出身者は少なくなかった。

 朝清さんは49年、ついのすみかとなる長崎市に移り住んだ。居を構えた長屋では、いずれ医師になる隣室の子どもの指導に熱を入れた。新聞から漢字を拾い、書き取りテストを課した。得意の毛筆で「静観」と書いて贈ることもあった。

 当時の朝清さんの手帳には、手書きの文字でこう記されている。「待てば甘露の日和ありと」。酒も飲まず、いつも穏やかだった朝清さんは61年1月、脳出血で息を引き取った。享年70。亡くなる前には再び、石垣姓に戻していた。

 □ □

 この連載は、台湾の李樹全さん(96)が恩師の朝清さんを探していると、昨年9月に本紙台北支局長だった故中川博之記者が記事化したのがきっかけだった。

 支援者たちと調査し、2人の“再会”は実現したが、その過程で、時代に振り回された朝清さんの人生が浮かび上がった。転籍、そして3度の改姓改名。彼の心は、どこにあったのか。

 朝清さんの出身地石垣島の郷土史に詳しい大田静男さん(69)は、明治政府により一時提起された石垣島の中国への分割案といった史実を踏まえ、時代にのまれ、生涯を閉じた朝清さんの胸の内を推しはかった。

 「国家の論理の前では、小さな島の都合は吹き飛んでしまう」

 先の大戦では山中への避難を強制されマラリア蚊で命を落としたり、見知らぬ台湾への疎開を勧奨されたりした島民も多かった。国家に翻弄(ほんろう)された「ある琉球人」は朝清さん一人ではなく、今もなお沖縄では、基地問題をはじめ、地域の思いや個人の尊厳は時に軽視されがちである。

 朝清さんの生家を探すと、観光客が押し寄せる商店街のすぐそばにあった。近くの民家の裏庭に、並べられた石を大田さんが見つけた。「生家に続いていた石垣の名残かもしれない」

 その石は、端っこから雑草に埋もれつつあった。

日本の琉球分割案 明治政府は1879年、琉球処分で琉球王国を解体する一方、琉球との冊封関係にあった清国に対し(1)沖縄諸島以北を日本領(2)宮古島、石垣島を含む八重山諸島を中国領-などとする琉球分割案を示した。両国は交渉を重ねて調印直前まで進んだが、94~95年の日清戦争で日本が勝利したことで、琉球は完全に日本の領土となる。

=2018/06/14付 西日本新聞朝刊=

西日本新聞のイチオシ [PR]

西日本新聞のイチオシ [PR]