ある琉球人の生涯(中) 日本統治時代の台湾 琉球人は「2等国民」

朝清さんが台湾時代から使っていた手帳と、それに挟まれていた手書きの家系図
朝清さんが台湾時代から使っていた手帳と、それに挟まれていた手書きの家系図
写真を見る
人類館に「展示」された人たち(関西沖縄文庫提供)
人類館に「展示」された人たち(関西沖縄文庫提供)
写真を見る

 台湾の李樹全さん(96)が台湾が日本の支配下にあった当時に世話になった元台湾の公学校(現国民小学校)訓導(教員)石垣朝清さん=1961年に死去=は自身の家系を大切にしていた。

 手帳に挟まれていた手書きの家系図からもうかがえる。朝清さんが最後に暮らした長崎市の親族が保管していたその家系図には、「源河某」を起点に朝清さんの孫まで、7世代分が書き込まれている。源河某は、1808(文化5)年に石垣に赴任してきた琉球王国の役人とみられる。家系図には「宮良家」「大山家」といった女性の嫁ぎ先もつぶさに記されている。

 朝清さんが1915(大正4)年に、その名を石垣用法から朝清に変えた頃、彼は石垣島の小学校に訓導として勤めていた。島は貧しく、子どもたちは誰もがはだし。島ではコレラやマラリアの感染も珍しくなかった。

 一族には、朝清さんと同様に教員になった人が多く、医師や薬剤師もいた。「古風な立身出世を是とする家だった」。朝清さんの末弟の孫、桃塚薫さん(47)=東京=はそう振り返る。

 さらなる立身出世を目指したのか、朝清さんはその後、石垣島の西約100キロにある与那国島で訓導となり、1921年7月に依願退職すると、さらに西の台湾に向かった。日本統治下の台湾・台北は「第2の東京」とも呼ばれる都会だった。広い道の両側に、整然と商店が並び、カフェの店内には洋服姿の女性がほほえんでいた。

 □ □

 朝清さんは21年11月に「乙種公学校教諭」の免許を取得し、翌年に32歳で公学校の訓導になった。朝清さんの長崎にある墓を参った李さんを教えたのは、13年後の45歳の時だった。

 元は士族の家系だった朝清さんは台北で、出自に対する差別を目の当たりにした。日本人は1等国民、琉球人(沖縄県人)は2等国民、台湾人は3等国民-。石垣島では見えにくかった差別意識が、生活の中にあからさまに入り込んでいた。

 朝清さんが台湾で暮らしていた頃、台湾で生まれ育った宮里ミエ子さん(92)=沖縄県東村=は、当時を印象深く覚えている。

 小学生の頃、友人は沖縄県人を指し「あの人は沖縄の人。本当の日本人じゃないよ」と陰口をたたいた。高等女学校では教師が本籍地を尋ね、沖縄県人の級友は身を縮めて手を挙げていた。

 当時、沖縄差別は、日本全体を覆っていた。大阪では琉球人などを見せ物にする「人類館」差別事件も起きた。沖縄の新聞社・琉球新報は「台湾の生蕃(せいばん)や北海道のアイヌと同列に下等動物同様に見せ物として…」と報じ、「沖縄も日本だ」と訴えた。ただその表現には、台湾やアイヌと区別する別の意味の差別意識も潜んでいた。

 この事件を検証している「関西沖縄文庫」主宰の金城馨さんによると、当時は中止されることもなく5カ月近く展示された。差別事件として公に初めて取り上げられたのは戦後20年以上たってからだった。金城さんは「事件として正されてはおらず、その構図は現代にもつながっている」と指摘する。

 沖縄出身を理由に就職を断られ、昇進が遅れるといった事案も日常的にあり、差別から逃れるため、住んだこともない日本本土に、本籍を移し、沖縄出身と分からないようにする人も少なくなかった。

 朝清さんも24年、沖縄県から長崎県に転籍する。しかし、この転籍が終戦後の朝清さんの人生に大きく影響することとなる。

「人類館」事件 1903年に大阪であった第5回内国勧業博覧会の会場の外に、見せ物小屋「学術人類館」が作られ、民族衣装を着た琉球人、アイヌ(民族)、台湾高砂族(先住民)、アフリカ人などが「展示」された。「性質が荒々しいのでどんなことをするか分からないから笑ったりするな」という立て札もあった。

=2018/06/13付 西日本新聞朝刊=

西日本新聞のイチオシ [PR]

西日本新聞のイチオシ [PR]