ある琉球人の生涯(上) 台湾発 恩師探しの旅から 「石垣先生」の過去 かつての王国への思いを込めた改名

石垣朝清さんの名前が刻まれた墓石を見つめる李樹全さん(右)=長崎市
石垣朝清さんの名前が刻まれた墓石を見つめる李樹全さん(右)=長崎市
写真を見る
石垣朝清さん
石垣朝清さん
写真を見る

 大きく枝を張った木々の若葉が強風に揺れる。さっきまでの小雨がやむと光が差し込んだ。

 4月上旬、長崎市内が見下ろせる墓地。台湾から訪れたスーツ姿の李樹全さん(96)が207段の石段を登り、墓石に両手を合わせた。「私が今、こうしているのは、ほんまに、先生のおかげです」

 声を詰まらせながら、幾度も語り掛ける。コケも生えた墓石には「石垣朝清 七二才」と刻まれている。消息を探していた教え子は、72年ぶりに恩師と“再会”を果たした。

 □ □

 日本の支配下にあった台湾。李さんら台湾人も日本国籍だった。本土から移住してきた日本人とは区別され、台湾の子どもだけを集めた公学校があった。1935年、台北市の南港公学校(現南港国民小学校)6年生だった李さんの学級担任が朝清さんだった。

 李さんは農家の7人兄弟の六男。午前中は学校で学び、午後は働き手の一人として牛の世話や畑仕事に汗を流した。靴は買えず、はだしだった。

 それでも学校は皆勤で卒業。ひたむきな李さんの将来を案じたのか、朝清さんが自宅を訪ね、李さんの父に進学させるよう訴えた。

 父が「百姓の子だ」と拒否すると、朝清さんは就職の世話をした。李さんに着替えをまとめさせ、日本人の経営するガラス店に14歳の李さんを連れて行った。

 自転車をふき、先輩達が入る風呂をたく下働きがほとんど。汗や汚れで真っ黒になりながら、真夜中まで懸命に働く日々だった。

 戦禍が激しさを増した39年に一時的に疎開。40年からは親類が営む薬売りを手伝った。自転車で1日100キロ走り、夜明けから真夜中まで売り歩いた。雨の日はむせるかっぱで全身汗だく。冬は手がかじかんだ。

 恩師との交流は続いていた。李さんが独立して薬販売を始める際、教員をやめて台湾総督府の職員になっていた朝清さんが、必要な許可を取った。店舗兼住宅を台北に建てると、足しげく訪ねてきてくれた。

 45年、日本は敗戦。日本人の台湾からの引き揚げが始まる。朝清さんは46年、家族と日本に引き揚げた。李さんはせめてもの感謝にと、30キロの砂糖を渡した。それが永久(とわ)の別れだった。

 その後も李さんはがむしゃらに働いた。店舗兼住宅の全焼など苦難も乗り越え、会社を大きくした。スリッパの生産工場を台湾やブラジルに設立し、92年には中国本土でスノーボードの生産も始めるなど成功を収めた。

 80歳を過ぎた頃、恩師の存在の大きさに改めて気付いた。「先生がいなければ田舎で農業に専念する人生だった」

 □ □

 石垣朝清さんとは、どんな人物だったのか。

 朝清さんは1890(明治23)年、沖縄県・石垣島で生まれた。6人きょうだいの次男。元の名を「石垣用法」といった。

 朝清さんの祖父、用定は40(天保11)年生まれで、琉球王国の士族だった。身分制度は厳格で、士族と平民は住居の大きさから服装まで違った。士族の男が通れば、平民はひれ伏した。

 王国は、明治政府による琉球処分で終幕する。当時、王国を守ろうとした用定ら士族や平民は、清国に助けを求める運動を起こした。士族が清国に宛てた83年の陳情書にはこう記されている。

 「琉球は日乱に遭って国は廃され、国王は内地に幽閉され、外島(宮古・八重山)もひとしく毒害を受けています」。明治政府の干渉を「日乱」と糾弾し、明治政府の支配を「日毒」と忌み嫌っていた。

 明治政府の弾圧は激しかった。用定のひ孫の糸数用一さん(75)=沖縄県石垣市=は幼い頃、台所で米をといでいた祖母が漏らした言葉を鮮明に覚えている。「捕らえられ、拷問されていた父に毎日、弁当を持っていった」。用定は釈放されたが、拷問の過酷さから発狂していたという。

 □ □

 沖縄の支配構造が激変した時代。朝清さんの一家は、改名に踏み切った。朝清さんは1915(大正4)年、その名を石垣用法から朝清に変えた。琉球王国の士族だった祖父の用定が亡くなる2年前である。

 沖縄には、名前の頭文字を「名乗頭」と呼び、生まれた男子に父の漢字を引き継がせる風習があった。朝清さんの一族は、その名乗頭だった「用」を、一斉に「朝」に変更したのだ。用定は朝定、用法は朝清…。「朝」にしたのは、家系をたどると琉球王国の王族の血をひく人物がおり、その名乗頭が朝だったからだ。

 「琉球王国は消えても、引き続き忠誠心を表した」。糸数さんはそう聞いたことがある。日本政府とは一線を画し、沖縄の自決権を目指す思いを名前に込めた。

   ◇   ◇

 日本が近代に入り、戦争の時代を迎えたころ、最西端の島の人々は出自に翻弄(ほんろう)された。日本人なのか、琉球人なのか、それとも…。台湾人の李さんの恩師である1人の琉球人の生涯を通じて日本-琉球-台湾の複雑な近代史の一断面をたどる。

琉球処分 1879年、明治政府が軍隊・警官など約600人を琉球王国に差し向けて断行した沖縄県の設置のこと。71年に廃藩置県が実施された際は、琉球王国は鹿児島県の管轄下に置かれ、72年には琉球藩と位置付けられていた。政府は75年に清国との冊封関係の廃止を命令。琉球側は、それまでと同じように日本と清国に両属的な状態を保持できるよう嘆願を繰り返したが、450年続いた琉球王国は滅んだ。その前後、王国復活を目指して清国に救援を求めた人々もいた。

=2018/06/12付 西日本新聞朝刊=

西日本新聞のイチオシ [PR]

西日本新聞のイチオシ [PR]