「争議は誇り」今も胸に 古里は炭都三池(下) [福岡県]

「三池は古里。地元の人は元気に頑張ってほしい」と語る立山寿幸さん
「三池は古里。地元の人は元気に頑張ってほしい」と語る立山寿幸さん
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元三池労組書記次長 立山寿幸さん

 三池炭鉱を舞台とした三池争議さなかの1960年3月29日、立山寿幸さん(82)=堺市=は、四山坑の正門に向かって走っていた。暴力団員が暴れている、という情報が入ったからだ。この時、暴力団員に刺殺されたのが三池労組の仲間だった久保清さんだ。

 「刺されたことが分かって、みんな怒り狂った」と立山さんは振り返る。事件に先立つ17日、三池新労組が三池労組から分裂して結成されたばかりだった。「変な話やけどね、怒りは第二組合(三池新労組)の方に向いていた。本当に悲しい話やけど…」。争議中、両者は何度も衝突した。

 親子2代で三池炭鉱に勤めた。7人兄弟の長男だったこともあり、稼ぎのいい炭鉱で働くことで家計を支える必要があったからだ。53年から四山坑で働き、立て坑の修理などを担当した。

 転機は59年に始まった三池争議。三池労組四山支部の青年行動隊副隊長に就き、すぐに執行部に当たる同支部労働部員になった。争議のクライマックスとされる「ホッパー決戦」(60年7月)で警察と向き合った時は、「死ぬかと思ったし、死んでもいいと思った」。衝突は土壇場で回避され、争議は終結へ向かう。

 立山さんは、争議中に四山坑の南門で起きたトラブルの責任者として、争議後に解雇された。その後も三池労組に残り、四山支部労働部長になった。63年には三川鉱で炭じん爆発事故が発生。事故後に坑内に入り、甚大な被害を目の当たりにした。「会社は増産に走り、組合は分断され力が弱まった。保安は置き去りになっていた」と指摘する。

 三池労組書記次長なども務めた立山さんは70年ごろ、大牟田を離れた。四山支部出身の組合長が辞めたことなどが影響した。東京で参議院議員秘書などを務めた後、関西を担当する総評の全国オルグに所属し、労働問題に対する助言や指導に携わった。その後は宿泊施設運営会社の社長を経て、現在は会長を務める。

 「三池」を離れて過ごした年数が人生の半分を超えた。「地元で暮らすのが一番。今でも三池は故郷ですから」と言い切る。三池争議という大きなうねりの中で、「職」も「暮らす場所」も失った。それでも、振り返って思う。「三池での闘争は、私の誇りです。みんなそう思ってるんじゃないかな」

=おわり

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※連載「古里は炭都三池」(上) 「異風者からの通信」発行人の前川俊行さん

※連載「古里は炭都三池」(中) 「関西・炭鉱と記憶の会」メンバーの上田茂さん

=2017/06/17付 西日本新聞朝刊(筑後版)=

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