言葉の風景へ ゆかりの地を歩く(4) 帚木蓬生「水神」=うきは市 [福岡県]

大石の取水口について説明する浮羽まるごと博物館協議会の佐藤会長
大石の取水口について説明する浮羽まるごと博物館協議会の佐藤会長
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五庄屋を祭る長野水神社
五庄屋を祭る長野水神社
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命賭した五庄屋の遺産

 農民を水不足による飢饉(ききん)から救うため、江戸時代の5人の庄屋が筑後川からの水路を開いた「五庄屋」の伝説。筑後地区では広く知られる物語を、農民生活の細かな描写とともに描いたのが帚木蓬生(ははきぎほうせい)さんの「水神」(2009年)だ。

 〈磔(はりつけ)台に間違いなか。あんた高田村から来たと言っとったろ。五庄屋ば磔の刑にするための柱じゃろ〉

 磔台を見た農民の驚きは相当なものだろう。久留米藩の財政も潤す公共工事でありながら、事業費はすべて五庄屋の手出し。あまつさえ工事が失敗したら、藩の面目をつぶした廉(かど)ではりつけにして殺すというのだから。

 江南原(えなみばる)(現在のうきは市吉井町江南地区)は大河のそばにありながら、台地のため水不足にあえいだ。田畑に与える水を、川に投げ入れた桶を引き上げ水路に流す「打桶(うちおけ)」に頼っている村もあった。

 〈その流れは筑後川と比べると絹糸より細い。二人で一度に汲(く)み上げる量など、水滴に等しかった〉

 磔台は工事の難所の一つ、長野堰(ぜき)(同市吉井町)近くにあったとされる。現在はサイホン式の地下水路となっており、堰は当時の面影をとどめないが、そこには五庄屋を祭神とする長野水神社が立つ。

 案内してくれた浮羽まるごと博物館協議会の佐藤好英会長は「五庄屋の工事に始まり、大石・長野水道の総延長は148キロにまで延びた。筑後川の143キロより長い。五庄屋は命を賭して、筑後を代表する豊かな穀倉地帯にしてくれた」と偉業に感謝する。

 筑後川からの取水口を築いた大石(同市浮羽町)から江南原までの総延長は13・3キロ。1664(寛文4)年のこの第1期工事は1日当たり500人、延べ4万人の手で、着工からわずか60日で完成。五庄屋の一人、山下助左衛門は、自らの村を龍のように流れる“川”を見ながら村人に語りかけた。

 〈私らが死んだあとも、何十年何百年と流れ続けてくれるじゃろ。私は、それば思うと、もうここで死んでも悔いはなかちいう気持にさえ、させらるる〉

 この作品は新田次郎文学賞を受賞した。ノンフィクション文学、または自然界に材を取った作品が対象だ。帚木さんは振り返る。「時代小説は多いが、江戸や大坂の武士、商人ばかり。『百姓を書いたぞ、見てみろ』と思ったけど、実は自然を描いたということでしょうね。思えば、百姓は四季との戦いだから」

 五庄屋の村が校区にあった江南小の校歌は8番まであり、すべて逸話が題材になっている。

 水もし引くに来たらずば 皆一同にはりつけの 刑罰その身に受くべしと 壮(さか)んなるかなこの言や(3番)

 百難万艱(ばんかん)排し得て 開きし長野と大石の 井堰に命を救わるる 田の面は二千百余町(6番)

 千古の偉業功成りて 下りし賞与の数々も 五人は辞して皆受けず 誰かは高義に泣かざらん(7番)

 自然を生かし、人を生かした350年前の大事業を、今も子どもたちが大切に歌い継いでいる。

 ◆水神 生葉郡(現うきは市)の5人の庄屋は、凶作に苦しみ続ける農民の暮らしを変えようと、筑後川にせきを設け左岸一帯に水路を開く構想を練る。難儀の末、久留米藩の許可が出るが、工事現場には失敗時、庄屋に責任を取らせるための5本の磔台が立てられる。

=2018/01/07付 西日本新聞朝刊(筑後)=

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