言葉の風景へ ゆかりの地を歩く(2) 葉室麟「無双の花」=柳川市 [福岡県]

「宮永様居館跡」の碑の横に立つ植野館長
「宮永様居館跡」の碑の横に立つ植野館長
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1872年1月の焼失前に撮影された柳川城(柳川古文書館提供)
1872年1月の焼失前に撮影された柳川城(柳川古文書館提供)
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家を守り乱世を生きる

 〈お前様は西国無双の武将にございます。必ずや返り咲いて、誰にも負けぬ無双の花を咲かせてくださりませ〉

 直木賞作家で昨年12月23日に亡くなった葉室麟さんが柳川藩初代藩主、立花宗茂(1567~1642)の後半生を描いた「無双の花」(2012年)。1600年の関ケ原の戦いで西軍についた宗茂は城を明け渡し、浪人となる。再起を期して京に上る宗茂に、妻の〓(ぎん)千代(1569~1602)が背中を押すような言葉を掛ける場面だ。

 柳川市が昨年から取り組む大河ドラマ誘致の主人公である2人。この場面から2年、〓千代は世を去るが「無双の花」では夫の心の支えであり続ける。権謀術数にたけた豊臣秀吉の天下に疑問を持つ〓千代が夫に掛ける言葉が印象に残る。

 〈太閤様よりいただいた柳川十三万石がきれいに無くなると思うと、胸がすっといたすのです〉

 一方で、〓千代は関ケ原の戦いの前年、柳川城の二の丸を出て、城下の宮永村に居を構えたことから、不仲だったと語られることも少なくない。

 大正期に筑後郷土史研究の権威、渡辺村男がまとめた「柳河藩私誌」には「慶長四年春、〓千代姫宮永村の新館ニ移ル。御夫婦御不和ノ故ナリ」とある。

 柳川古文書館の白石直樹学芸員は逆の考えだ。豊前・大友家の重臣、高橋紹運の長男として生まれた宗茂は、同じ大友の重臣で男子がなかった戸次(べっき)道雪に請われ、それまで女城主だった娘の〓千代の婿として迎えられる。「〓千代を道雪の正当な後継者とする家臣が少なからずいた。『一つの城に2人の殿は好ましくない』と身を引いたと考えるのが自然だ」と、戦略的な別れだったとみる。

 二つの説の間に立ちながら、〓千代が“別居”していた場所を訪ねた。柳川市宮永地区に立つ「宮永様居館跡」の碑。柳川城趾からのあまりの近さに驚いた。直線距離でわずか500メートル。〓千代は天守閣を仰ぎ見るように生活していたのだ。同行してくれた立花家史料館の植野かおり館長は「2人は信頼できる共同経営者として、ともに乱世を生き、立花を守るという信念で結ばれていた」と語る。

 「無双の花」の文庫本の解説を書いた植野館長によると、この作品に、葉室さんの信念が描かれた場面があるという。

 昨年10月、宗茂が浪人を経て、初めて大名として復帰した地、福島県棚倉町で植野館長と葉室さんが対談する機会があった。既に体調を崩していた葉室さんだったが、東日本大震災からの復興に取り組む福島の人たちにこう訴えたという。「人間は喪失したものを取り戻すことの繰り返し。失った日常、ささやかな幸せを取り戻してください」

 「無双の花」の中にも似た言葉がある。2代将軍・徳川秀忠の信頼を得た宗茂は、父・家康との力量の差を嘆く秀忠に語りかける。

 〈世は努めることを止めぬ凡庸なる力によって成り立っておるかと存じまする〉

 「葉室さんは宗茂とその一生を例に、東日本大震災の被災者の人たちに『凡庸なる力』の尊さを伝えたかったのではないか」。植野館長は空を見上げた。

 ◆無双の花 柳川藩初代藩主、立花宗茂の後半生の苦闘が主題。宗茂は関ケ原の戦いを西軍で戦い、徳川家康に領地を召し上げられ、京都などで浪人生活を送る。しかし20年後、柳川藩主に奇跡的に返り咲く。妻の〓千代との精神的なつながりも丁寧に描く。

※「〓」はいずれも「もんがまえ」の中に「言」

=2018/01/05付 西日本新聞朝刊(筑後)=

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