芭蕉を祭ったのは久留米が日本初? 小郡の大石さん講演 「文学碑」の奥深さ伝える [福岡県]

文学碑の研究成果を披露する大石実さん。拓本の取り方も解説した
文学碑の研究成果を披露する大石実さん。拓本の取り方も解説した
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松尾芭蕉の文学碑の拓本(左)と川端康成の拓本
松尾芭蕉の文学碑の拓本(左)と川端康成の拓本
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 久留米連合文化会総合文化部門は9日、初めての文化講演会を久留米市諏訪野町で開いた。テーマは「ふるさとの文学碑と拓本の話」。「福岡県の文学碑・古典編」などの著書がある大石実さん=小郡市=が講演し、身近にありながらもなかなか実態が知られていない「文学碑」の奥深さを伝えた。

 1934年に生まれ、高校教諭を務めてきた大石さんが文学碑研究を始めた契機は、ある句碑との出合いだった。58年、趣味の登山で宝満山を登っていたところ、松尾芭蕉の句碑を見つけた。〈世の人の見つけぬ花や軒の栗〉(寛政10年建立)。週明けの授業で句碑について話したところ、いつもは退屈そうな生徒たちが「芭蕉も宝満山に登ったんですか?」と身を乗り出してきた。「その時は分からずお茶を濁したけど、芭蕉が実際に九州に来たのかどうか、調べてみた」と大石さんは語る。

 国文学者大内初夫氏の研究により、今日では芭蕉が九州に来たことはないとされている。にもかかわらず、数多くの句碑があることを、大石さんは「(芭蕉の高弟)志太野坡(しだやば)らが九州で蕉風(俳風)を広める努力をしたため」とみる。

 以来、県内をくまなく回り、文学碑を採寸し、写真を撮り、拓本を取る“戸籍づくり”に没頭してきた。2014年時点の集計で、実際に足を運んだ文学碑は1129基、存在は知りつつも未踏のものは249基ある。「新しく建てられたものもあり、今は1500基くらいでは」と語る。

 大石さんによると、全国で初めて芭蕉を「神」として祭ったのは久留米だという。高良山の宮地嶽神社境内にある「桃青霊神社」は寛政3(1791)年、田主丸の俳人岡良山が京都の神祇伯から認可を受けた。「『桃青』は芭蕉のもともとの号。他の県には〈古池や蛙飛びこむ水の音〉からきた『飛音明神』という神号もある」と話す。

 万葉歌から近代文学まで、大石さんが取った拓本も掲げながらの幅広い話に、約20人が聞き入っていた。

=2018/06/22付 西日本新聞朝刊=

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