農業の礎を築いた筑後国司 奈良時代、都から赴任の道君首名 耕作やかんがい整備に尽力 [福岡県]

久留米市田主丸町にある道君首名の墓
久留米市田主丸町にある道君首名の墓
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久留米市大善寺町の首名塚で、道君首名の功績について語る古賀久隆さん
久留米市大善寺町の首名塚で、道君首名の功績について語る古賀久隆さん
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大木町蛭池の虚空蔵神社の扁額
大木町蛭池の虚空蔵神社の扁額
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道君首名をしのんで建てられたとされる久留米市三潴町の虚空蔵神社
道君首名をしのんで建てられたとされる久留米市三潴町の虚空蔵神社
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 奈良時代、現在の筑後地区の農業や縦横無尽に走るクリークの基礎を築いた人物がいた。713年に筑後国司として都から赴任した道君首名(みちのきみおびとな)(663~718)。わが国初の本格的な法典「大宝律令」の編さんに携わった後、筑後と肥後の国司として派遣され、民から敬愛され筑後で没した学者肌の良吏だ。今年は没後1300年の節目。筑後国府があった久留米市周辺のゆかりの地をたどった。

 首名は北陸の地方豪族の家系。同族に天智天皇(626~672)の夫人がいたことから中央での登用が実現したとされる。若くして唐の律令を学び、701年の大宝律令制定にも深く関与した。712年には遣使として朝鮮半島の新羅に渡った。

 国司として白羽の矢が立ったのは約1年の新羅滞在からの帰還直後だった。首名の研究を続ける郷土史家で柳川市ボランティアガイド会長の古賀久隆さん(83)=同市京町=は「自らが手掛けた律令政治の実践の場として、他の国司の手本となるつもりで九州に来たのではないか」とみる。

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 国府があったのは久留米市合川町付近。墓は同市田主丸町上原の日吉神社境内にある。もともと、約200メートル南に鎮座し、ほこらもあったというが、道路拡幅のため墓石だけが地元の人たちの手で境内に移設された。亡くなって1300年を経てもなお、墓前には花が手向けられていた。

 大陸式を取り入れた先進的な農業政策には当初、多くの不満が漏れたという。筑後は赴任以前から、国内有数の穀倉地帯だっただけになおさらだ。平安時代初期の史書「続日本紀」にはその働きぶりについて、異例の記述がある。

 「任地においては、人々に農業を勧め、耕地に果樹や野菜を植えること、鶏や豚の飼育方法まで細かく規定を制定し、時宜を尽くした方法を教えた」

 「しばしば任地を巡行し、教えに従わない者に対しては程度に応じて処罰を加えた。当初、人々は内心恨んでののしったりしたが、収穫が増えるにつれ、1、2年のうちに国中の人々がみな従うようになった」

 首名は矢部川の水を引き、堤やため池を造って広い地域でかんがい事業を推進。柳川に代表される水路網も、その礎となったのは首名の仕事だ。田のあぜには大豆や野菜、果樹を植えさせた。鶏や豚の肉を干し肉にして保存することなども教えた。

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 久留米市大善寺町夜明の夜明神社境内にある首名塚、同市三潴町福光や大木町蛭池の虚空蔵神社…。古賀さんによると、筑後、肥後には首名の偉功をしのんで建てられた多くの墓や神社、碑が残るという。

 墓の一つとも伝わる首名塚の前で、同行してくれた古賀さんは「大宝律令制定に深く関わり、新羅を訪れた超エリートが最晩年、筑後と肥後の発展に尽力し、筑後で亡くなった。あまり知られていないが、もっと光を当てられていい偉人だ」と話した。塚を守るかのようにシイノキの巨木が覆っていた。

=2018/06/23付 西日本新聞朝刊=

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