大川に木製飛行機の歴史 「品質日本一」軍も評価 練習機「白菊」主翼製作か [福岡県]

当時の写真帳を見て話し合う中牟田驍さん(左)と杉利夫さん
当時の写真帳を見て話し合う中牟田驍さん(左)と杉利夫さん
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旭航空機製作所の工場前での記念写真。「敵前生産」の文字が見える
旭航空機製作所の工場前での記念写真。「敵前生産」の文字が見える
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初号機の尾翼を送り出す様子。春日市の九州飛行機製作所に運んで機体を組み立てた
初号機の尾翼を送り出す様子。春日市の九州飛行機製作所に運んで機体を組み立てた
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主翼を作る様子。女性の姿が確認できる
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 7月下旬、大川商工会議所青年部の木製飛行機「木のきもち号」が、人力飛行機大会「鳥人間コンテスト」に出場し、琵琶湖上空を滑空した。3度目の挑戦だった。家具の街・大川には戦時中、そのルーツともいえる木製飛行機の部品工場があり、地元郷土史家の調べで工場の場所や規模が明らかになった。

 飛行機部品を作っていたのは、大川市酒見中原にあった「旭航空機製作所」。自宅の敷地がその一部に含まれていたことを知った郷土史家の中牟田驍(たけし)さん(74)が、戦中と戦後の航空写真から工場は中原公民館近くにあり、巨大な平屋建物が密集していたことを突き止めた。

 中牟田さんが参考にした「大川の昔と今」(おおかわ文庫編集委員会、1980年)の「木製軍用機日本一の旭航空機製作所」(故藤吉康信氏著)によると、同社は1943年12月に設立。地元の材木商が戦況報告会で飛行機が足りないことを知り、資本を投じて設立した。当時は成人男性の軍需工場への徴用が多く、大川に木製飛行機工場を作ることは、木工技術者の「徴用逃れ」の側面もあったとみられる。

 工場で作られた部品は九州飛行機製作所(春日市)に運ばれ、そこで機体を組み立てた。44年3月に生産を始め、同15日には初号機に用いる主翼などが完成した。これらの部品は軍の強度検査で「木製飛行機強度日本新記録」と評価され、軍需省の福岡軍需監理部長から工場に「旭光」の書と工場関係者の労をねぎらう言葉が贈られた。

 工場は主翼班、小骨班、尾翼班など10班に分かれ、従業員は木工技術者や大川工業学校(現大川樟風高)の学生など常時約700人がいた。九州飛行機のほか、海軍航空隊大村基地(長崎県大村市)などから注文を受け、月間120機分の部品を製造した。

 工場の実体については戦後に資料が焼却されたこともあり、これまでどのような機種を作っていたのか不明だった。藤吉氏の著作をヒントに記者が過去の西日本新聞筑後版を調べたところ、76年11月16日付「木製飛行機をしのぶ 赤トンボの会が初会合」の記事を見つけた。その中で当時の社長が「大村基地で赤トンボが飛ぶのを見たが、機体は12~13メートル。単発で1枚翼。色は赤でなく緑だった」と証言している。

 これまで大川製の木製飛行機は2枚翼の九三式中間操縦練習機(通称・赤トンボ)ではないかといわれていたが、証言から1枚翼の機上作業練習機「白菊」だった可能性も出てきた。

 「白菊」は九州飛行機製作所製で、全長約10メートル、全幅約15メートル。金属製の胴体に木製の翼が取り付けられ、機体すべてが木製の後継機も計画されていたという。

 工場があった中原町区の杉利夫区長(75)は、義父が経営する木工所に73年に入社した。「大きな平屋の建物で『戦時中は飛行機を作っていた』と聞かされていた」と振り返る。工場は2002年ごろに解体され、現在はアパートや民家が立ち並ぶ住宅地となった。

 中牟田さんによると、市内には別の場所にも工場があり、飛行機部品を作っていたとみられる。「当時を知る人たちは既に90歳以上。急がなければ大川の産業史に残る歴史が埋もれてしまう」と危機感を抱く。

 木のきもち号の製作に携わった鳥人間実行委員会の津崎繕幸(よしゆき)委員長(38)は「日本一の木製飛行機を作っていたなんて、当時から大川の技術はすごかったと実感した」と話した。

=2018/08/11付 西日本新聞朝刊=

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