北海道・厚真と柳川結ぶ絆 「開拓の祖」柳川藩士出身の岡田孤鹿 故郷への手紙に苦闘の跡 [福岡県]

岡田孤鹿が柳川の吉田孫一郎に宛てた手紙。凶作だったことなどを伝えている(柳川古文書館収蔵)
岡田孤鹿が柳川の吉田孫一郎に宛てた手紙。凶作だったことなどを伝えている(柳川古文書館収蔵)
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岡田孤鹿
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地震で倒壊する前の孤鹿の墓石(厚真町教育委員会提供)
地震で倒壊する前の孤鹿の墓石(厚真町教育委員会提供)
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 自然災害が多発した2018年。世相を表す「今年の漢字」に「災」が選ばれた。最大震度7を記録した9月の地震で町民36人が犠牲となった北海道厚真町(あつまちょう)(人口約4600人)は、実は筑後地区と深いつながりがある。住民が「開拓の祖」とあがめる人物が、柳川藩士出身で民権派の政治家として活動した岡田孤鹿(ころく)(1834~1906)だ。柳川市の柳川古文書館には、北の大地から柳川の知人へ宛てた孤鹿の手紙が残り、苦闘の跡がうかがえる。

 柳川藩士の家に生まれた孤鹿は、藩の財政を担当する物也(ものなり)役などを歴任。明治政府に出仕後も盛岡県大参事などの要職に就いた。1879(明治12)年に柳川に戻ると翌年、県会議員(現在の県議会議員)となった。自由民権運動のリーダーとして活躍し、87年には県会議長に。民権派の福岡日日新聞(西日本新聞の前身)の社長も務め、90年の第1回衆議院議員選挙で当選。活躍の場を国政に移した。

 だが94年、60歳で政界を引退し、厚真町の荒野に移り住んだ。古文書館の江島香学芸員は「北海道開拓の有用性を強く認識していたことは間違いない。同時に自身の理想、思想を政治では実現できないと限界も感じたのではないか」と推察する。

 孤鹿は93年、福岡日日新聞に「西洋列強に対し日本の独立を保つことが重要。北海道を開拓すれば多数の貧民は富民となり、北方を守る土地となる。意を決して北海に赴く」との決意の文を寄せている。

 高い志を抱いて入植した孤鹿。しかし極寒の地での開拓は困難を極めたようだ。県会議員や山門郡長などを務めた旧知の吉田孫一郎に宛てた1902年1月の手紙には、柳川の焼きハゼを送ってもらったお礼とともに「近ごろは華氏0度(氷点下17・8度)を下回り、毎朝布団の襟に真っ白く霜が降りてバワリバワリと音がするほどで、外出も困難」などと記している。

 吉田に送った同年12月の手紙では「一昨日は出張で3里(約12キロ)の悪路を往復した。来年は古希(70歳)の老人。身体の衰弱は覚えないが、涙もろくなったのは年を取った証拠。年明けの1、2月に柳川に帰りたかったが、今年は凶作で難しそうだ」などと厳しい暮らしぶりを伝えている。

 孤鹿は200ヘクタールの荒れ地を開墾。厚真町で72歳の生涯を閉じた。9月の地震で町内にある孤鹿の墓は倒壊。墓石には歌が刻まれていた。

 「蛙(かわず)鳴くひびやの原を行きすぎて胆振(いぶり)の奥にわが世つくさん」

 当時、日比谷に議場があった衆議院での議論をカエルの鳴き声と皮肉り、北の大地で開拓生活を送る自らの意気込みを詠んでいる。江島学芸員は「故郷から遠く離れて北海道開拓に尽くした岡田の一本気な人柄がしのばれる」と話す。

=2018/12/15付 西日本新聞朝刊=

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