「神々は田川に実在した」 研究家・福永氏が自説、ファン楽しむ 田川古代史フォーラム詳報 [福岡県]

「田川古代史フォーラム」は500人の来場者の熱気に包まれた
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古代天皇や卑弥呼と田川地域との関わりについて語る福永晋三氏
古代天皇や卑弥呼と田川地域との関わりについて語る福永晋三氏
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 弥生時代、田川は神々と王の故郷だった-。田川市の県立大で21日に開かれた田川古代史フォーラム「古代田川の隠された歴史」(田川広域観光協会主催)。「神功皇后紀を読む会」を主宰する福永晋三氏は記紀に登場する神々が田川に実在した王であったとの自説を披露。赤村の前方後円墳型の丘陵を卑弥呼の墓とする新説も飛び出し、約500人の古代史ファンを楽しませた。

 福永氏は独自の視点で読み解いた古事記や日本書紀、万葉集、中国の史書の記述と、田川地域に残る神社や地名、遺跡、遺物との関わりを示しながら、講演を進めた。

 前半は「神話は歴史事実の反映」として、神々が実在した証しを紹介。八岐大蛇退治で知られる素戔嗚尊は、「奈良県には無い」須賀神社(祭神は素戔嗚尊)が点在する飯塚市の内野老松神社周辺を根拠地に、筑豊地域の王として君臨。後に饒速日尊(にぎはやひのみこと)(天照大神)の侵略を受け、近くに須佐神社がある「天岩屋戸」の岩屋鍾乳洞(田川市夏吉)で滅んだとの自説を語った。

 後半では「邪馬台国田川説」を唱えた。北部九州からは弥生時代の鉄剣が奈良とは比較にならないほど多数出土しており、魏志倭人伝の「倭人(わじん)は鉄のやじりを使う」とする記述を裏付けると主張。前方後円墳型地形がある赤村とその周辺には日本書紀にある地名や記述に合致点が多く、この地形からは土器片も出土していることなどを挙げ、自然の地形を成形した女王卑弥呼の墓「箸墓」の可能性が高いことを示した。

 パネル討論では、田川市と香春、川崎、福智3町の文化財担当者が参加。弥生時代から古墳時代の様相がうかがえる各自治体の遺跡を紹介した。

■日本書紀から読み解いた赤村の巨大古墳地形と箸墓古墳 「神功皇后紀を読む会」主宰・福永晋三氏 「記述と地理が重なる」

 箸墓古墳は、奈良県桜井市箸中にある古墳だ。形状は前方後円墳。被葬者は明らかでないが、宮内庁により大市(おおちの)墓として第7代孝霊天皇皇女(日本書紀では倭迹迹(やまととと)日百襲姫命(びももそひめのみこと))の墓とされている。

 纒向(まきむく)遺跡の箸中にある箸中古墳群の盟主的古墳であり、以前は築造年代が3世紀末から4世紀初頭とされていた。だが、1980年代以降の考古学的年代決定論により箸墓古墳の築造年代も卑弥呼の没年(248年)に近い3世紀の中頃から後半とする説が有力になっているが、疑問視する見方もある。

 日本書紀から読み解くと、箸墓の由来はこうだ。

 倭迹迹日姫が大物主神の妻となった。神は昼に現れないで夜だけ来た。倭迹迹日姫は朝に神の麗しい姿を見たいと言った。神は翌朝姫の櫛(くし)箱に入って居よう。私の姿に驚いてはならないと答えた。翌朝櫛箱を見ると麗しい小さな蛇がいた。姫は驚き叫んだ。神はたちまちに人の姿となって妻に言った。「おまえは私に恥をかかせた。私はおまえに恥をかかせてやる」と。

 神は空に上り三輪山に帰った。姫は仰ぎ見て後悔し、ドスンと座った。すると箸に陰部をついて死んだ。そこで大市に葬った。時の人はその墓を名付けて、箸墓といった。

 この墓は、昼は人が造り、夜は神が造った。また、大坂山の石を運んで造る。山から墓に至るまでに、人々が列をつくって手から手へ渡して運んだ。時の人が歌った。「大坂に継ぎ登れる石群(いしむら)を手(た)ごしに越さば越しかてむかも」

 さて「昼は人が造り、夜は神が造る」という表現からしても、箸墓は巨大古墳に違いない。ただ「大坂山の石群」は歌と合わない。歌は「登る」のに、奈良県の箸墓だと大坂山から下ってくることになるからだ。

 しかも、歌は「大きな石群を手渡しで渡せたら坂を越すことができるだろうか、いや、とてもできない」という重労働を嘆いており、歌の意味からも地理に合わないと見る記紀歌謡研究者は少なくない。箸墓も大坂の石群も奈良県大和国にはないのだ。

 私は、「大坂に継ぎ登れる石群」とは豊前国大坂から登ったところにある「御所ケ谷神籠石」(行橋市)を指すと考えている。およそ1立方メートルの石塊を人力で運んだ大土木工事だったのだ。こうした神籠石遺跡は奈良県に見当たらない。

 本物の箸墓も豊前国に造られたとすると、それこそが赤村内田の巨大前方後円墳型地形ではないだろうか。

 大物主神は三輪山の神である。実は、三輪山と見られる山が豊前国にある。香春岳だ。実に美しい三輪の山である。奈良県の三輪山は一輪でしかない。香春岳にはそれぞれの山に神がおわす、計三柱の神を祭る。だが、奈良県の三輪山は一輪しかないから、三輪鳥居という横に三連で並ぶ特殊な鳥居を建て、三柱の神を祭っている。

 香春岳は天香山・耳成山・畝尾山の倭三山にとどまらず、大物主神を祭った三輪山(御諸(みは)山)でもあった。川崎町には、この大物主神を祭る大三輪神社と大石神社がある。

 箸墓伝説は崇神天皇紀にある。大物主神は蛇神であり、祟(たた)り神とされている。崇神天皇紀の主要なテーマは、国内に疫病をはやらせた神がいて、その神のお告げを受けて、大田田根子を探しだし、その神を祭らせたところ、たちどころに国が平定したというものである。神の名は大物主、その神が憑(つ)いたのが倭迹迹日姫だった。

 実は、崇神天皇紀には、後漢書や魏志倭人伝にいう「倭国大乱」に似た状況が記されている。

 「倭国大乱」を鎮めて共立された女王が卑弥呼だった。邪馬台国畿内説の中では、こうした記述と重ねて倭迹迹日姫が卑弥呼に当たり、箸墓が卑弥呼の墓と比定されている。

 そうであるならば、赤村の巨大古墳型地形が卑弥呼の墓であってもおかしくない。古墳型地形の後円部は香春岳(=三輪山)を向いており、実に興味深い。

 私は、邪馬台国田川説や倭国=豊国説を唱えてきた。初代神武天皇は西暦121年に香春の橿原宮(鶴岡八幡宮)で即位し、136年崩御し、137年に香春のおほきんさん(=畝傍東北陵)に葬られたと比定している。この神武即位から80年後の200年に卑弥呼は共立された。神武から数えて7、8代のころである。

 卑弥呼は魏から銅鏡100枚を下賜された。魏鏡は後漢式鏡と思われる。鏡の考古学では、三国時代の南北(呉・魏)は日本の東西と呼応するとする。三角縁神獣鏡は呉系統の鏡で、後漢式鏡は魏系統とする。その後漢鏡の多くは田川郡の古墳からも出土している。

 卑弥呼が田川に眠っている可能性はたいそう高い。(記紀万葉研究家)

=2018/03/29付 西日本新聞朝刊=

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